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第五回 戦後のスポーツヒーローは長嶋茂雄と力道山

 

長嶋茂雄は戦後最大のヒーロー

1959年6月25日、4-4で迎えた9回裏、ノーアウト、ランナーなし。ツーストライク・ツーボールからの5球目。阪神の村山が投げたインコース高めの球をハッシととらえた長嶋の打球はレフトスタンドに吸い込まれた。昭和天皇をお迎えしての、史上初の展覧試合は劇的な幕切れだった。野球は“筋書きのないドラマ”というけれど、この時ばかりは“よくできたドラマ”を見る思いだった。広島ファンだった私は、普段はあまりナイター放送を見ないのだが、この阪神ー巨人戦だけは天皇が観戦するというだけで、何か特別な思いがして見てしまった。天皇は野球のルールを知ってるのだろうか、野球の面白さを知ってもらうために、選手は目いっぱいガンバルだろうな。子どもの私ですら、そんな感じを持ったのだから、日本人の大半は通常の試合でない、何かを感じていたはずだ。そうしたプレッシャーで覆われた異様な雰囲気の中で、ドラマの主役になってしまう長嶋はやはり凄い男だ。

巨人に人気が集中し、巨人中心のプロ野球になったのは、巨人の強さもあったが、全国ネットを持つNTV系列の巨人一辺倒のプロ野球中継と相まって、長嶋のスター性に負うところが大きかった。長嶋が南海ホークスに当初の約束通り(南海球団が、卒業後の入団を目的に、立教大学在学中の長嶋と杉浦に資金援助していたのは周知の事実。杉浦は南海に入団している)入団していたら、その後のプロ野球史は違っていたものになっていたろうね。この年の日本シリーズは、南海対巨人の因縁の対決で、杉浦が4連投して日本シリーズ初の4連勝で南海が優勝している。杉浦の全盛期のシーズンでもあり、38勝4敗という驚異的な数字を残している。スッポ抜けた球が、西鉄の花井選手の頭部を直撃し、そのヘルメットをブチ割ったという伝説が残っているくらい凄い球を投げていた。

当時のプロ野球と現在とを比べた時に、大きく異なるのは各チームのエースの存在だ。当時のチームのエースというのは、20勝するのは当り前。30勝投手だって珍しくなかった。先発と抑えの両方で登板するのだから、エースを酷使することになり、結果として選手生命は短かった。しかし、今の投手より強烈に印象に残っている。中日のエースだった権藤は、61年に35勝、62年に30勝あげているが、通算成績では百勝すらしていないのだ。それでも私の記憶の中には、憎っくき中日のエースとして鮮明に残っている。

プロ野球中継で忘れられないのは、小西得郎さんの野球解説だ。「なんと申しましょうか、打ちも打ったり、捕りも捕ったりとでもいいますか……」その口調が流行語になったよ。選手を決しておとしめささない、ほのぼのとした解説だったなあ。


 長嶋のスター性



力道山は稀代の名プロデューサー

 

子どもたちに人気のあったスポーツで、野球、相撲とくれば最後はプロレスとなる。オヤジ連中にはプロボクシングも結構人気があり、1961年当時、毎週一回は民放のどこかでプロボクシングの放送があった。私はボクシングはそれほど好きでなかったので、父が見るついでに見るという感じだった。中でも郡司信夫と、日本で最初の世界チャンピオンとなった白井義男が解説していたTBS系列のものはよくみていた。ボクサーよりも、レフリーの遠山甲がカッコよかったよなあ。

逆にカッコ悪かったのが、プロレスの沖識名レフリーだった。いつも判定に文句をつけられ、レスラーからTシャツをビリビリに破かれていた。外人組のノータッチの反則攻撃や、凶器の隠し場所に全然気づかず、イライラしてテレビに向かって何度罵声を浴びせたことか。ところが、あれは全部演出だったんだよね。プロレスのレフリーというのは、試合の演出家でもあるんですよ。客を興奮させ、会場のボルテージを上げるためには、知っていても知らない顔をする。われらが力道山が、ガマンにガマンを重ね、ついに正義の怒りを爆発させ、空手チョップで憎き外人レスラーを叩きのめす。外人レスラーや、ドジなレフリーに対する観客の怒りが大きいほど、力道山の活躍は盛大な拍手を持って迎えられるんだね。そういった意味では、沖識名はプロレスの本質を知りぬいた名レフリーといえるなあ。また、沖識名をレフリーに起用した力道山もサスガだよ。

プロレス興行が一時の勢いを失って下降傾向にあった時、力道山が打開策として企画したのが、世界の強豪レスラーを集めてリーグ戦を行うというものであった。1959年の4月にスタートした第1回ワールドリーグ戦は、テレビ受像機の普及と相まって、プロレス人気を再燃させた。ちょうどこの頃、広島では民放が開局して、広島の子どもたちの間でも、プロレスが爆発的な人気番組となった。

第1回ワールドリーグ戦では、ジェス・オルテガ、キング・コング、エンリキ・トーレスといった並みいる強豪を押しのけて、大暴れをみせたのが“赤覆面”のミスター・アトミックだった。ビール瓶の口金をマスクの下に隠し持った頭突きで、力道山をはじめとする日本人レスラーのヒタイを血ダルマにしていた。年齢、素性、本名まったく不明というこの怪人は、アメリカではザ・プリチュアと名乗ってファイトしていたマスクマンだった。プリチュア(僧侶)なんてイカさないし、ちっとも強そうでないので、日本への招聘にあたって、力道山が原爆(アトミック・ボム)を想起させるミスター・アトミックにリング・ネームを変えさせたんだよ。力道山と決勝で対決したのはオルテガだったが、人気はアトミックの方が上だったなあ。

キング・コング対ミスター・アトミック
キング・コング対ミスター・アトミック


翌60年の話題のレスラーといえば、黒人のリッキー・ワルドーだ。第2回ワールドリーグ戦に参加した“殺人タックル”のレオ・ノメリーニも忘れられないが、ダッコちゃんブームとともにやってきた“恐怖のダッコちゃん”は格別だった。ダッコちゃんというのは、空気を入れてふくらます何の変哲もないビニール人形なのだが、当時これが何故か品切れ続出という大ヒット商品になったんだよ。一家に一個は必ず持っていたなあ。この黒人人形に似ていたのがリッキー・ワルドーだったんだよ。アメリカで食い詰めて、放浪のすえ日本にやってきて、力道山に見いだされたたんだ。ガチガチのセメントマッチで日本勢を苦しめ、一流外人レスラーの仲間に入れてもらったが、彼のレスリングスタイルは日本以外では通用せず、いつのまにかまた放浪に出かけ行方不明となった。

61年の第3回ワールドリーグ戦には、“シベリアの密林男”グレート・アントニオがやってきた。シベリアの密林(シベリアに密林なんてあるのだろうか)で野獣と生活していた獣人というふれこみで、首に太い鎖を巻きつけ、グレート東郷に先導されてリングに登場した。200キロの巨体が「ウォー、ウォー」と通路で吠えまくり、テレビで見ていた私もビックラこいた。デモンストレーションで、明治神宮外苑絵画館前広場において大型バス4台を鎖で引っ張る怪力ぶりを見せられては、力道山は本当にこの怪物に勝てるだろうかと心配したものだ。ところが、このアントニオがリーグ戦途中からいなくなっていた。このリーグ戦のエース格だったミスター・X(ビル・ミラー)とカール・ゴッチが、人気におぼれて最高実力者気取りで傍若無人にふるまうアントニオに対して、セメントマッチで半殺しにしてしまったのだ。アントニオは恐怖のあまり、貨物船でカナダに逃げ帰ったんだってさ。ミスター・Xとカール・ゴッチは、当時のNWA世界チャンピオンのバディ・ロジャースさえも袋たたきにして、腕を骨折させたほどの剛の者だから、アントニオにとって相手が悪すぎたといえる。



グレート・アントニオのデモンストレーション
グレート・アントニオのデモンストレーション


テレビ観戦中に、興奮のあまり6名の老人がショック死し、社会問題化するほどの騒ぎを引き起こしたのが“吸血鬼”フレッド・ブラッシーだった。62年4月22日に行われた、ブラッシー対力道山のWWA認定世界ヘビー級選手権試合でのことである。ブラッシーの噛みつき攻撃に、力道山のヒタイからドクドクと真っ赤な血が噴出したのだ。なにしろブラッシーの歯は入れ歯で、毎日ヤスリで研いで鋭くしていたので、力道山のヒタイはひとたまりもなかった。これに対し、力道山の空手チョップは冴えに冴え、悪は正義には絶対勝てないという、勧善懲悪の演出を見せてくれたんだよ。

   フレッド・ブラッシー
フレッド・ブラッシー
 
資料提供 : Nostalgic World
 
次回は「毎日西部劇を見ていた」を掲載します。お楽しみに!

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コメント

確か、プロレス中継で、次の試合が始まる前、掃除機でリングをきれいにしていた記憶がある(提供が三菱電機)。子供心になんで掃除機で掃除しなけりゃいけないんだろうと思った。今思うと、あれは生CMのハシリだったんだね。

投稿者 風神 : 2007年01月25日 13:26

小学6年(昭和36年)の夏休みに、オヤジにつれられて後楽園球場に巨人×国鉄戦のダブルへダーを見に行きました。4時ころから第1試合が始まり、薄暗くなったころ照明塔に灯がともり、まあ、その明るいこと、綺麗なこと、はじめて見たもので大変感激しました。(当時家ではハダカ電球だったもんで…)試合はたしか2試合とも巨人が勝ち、ナガシマは2本、オーは1本、本塁打をかっ飛ばしました。ここで打ってくれという時に必ず打つ…ナガシマは確かに凄いバッターだった。

投稿者 ビールいかがっすか? : 2007年01月25日 13:44

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