“~ザ・ヒッパレー ザ・ヒッパレー……~”で始まる『ザ・ヒットパレード』は、1959年6月からスタートし、69年12月まで10年にわたって放送されたポピュラー音楽番組だった。 歌謡曲中心だった日本の歌謡界に、この番組からザ・ピーナッツをはじめとする人気ポピュラー歌手が誕生していった。いつの時代でも若者は、既存の音楽にない新しい旋律を好むもので、当時は欧米の曲がとにかく新鮮だった。 『ザ・ヒットパレード』と同様な番組に、1961年4月からスタートした『ポップ・ショー』というのがあった。ポップスという用語が定着したのは、この番組からじゃないかなあ。 ジェリー・藤尾と渡辺トモコがレギュラー出演し、64年まで続いた。この番組が縁となって、ジェリー・藤尾と渡辺トモコが結婚したのは、周知の事実だね。洋物ポップスは、この二つの番組を通じて知ったといっても過言ではない。 ダンス音楽、ジャズ、ロカビリーが、洋物ポップス(厳密にはロカビリーも洋物ポップスに含まれるが)の前にあったが、私たちの年代では直接接していない。ビッグ・バンドを生んだダンス音楽、ジャズ喫茶の存在、ウエスタンカーニバルの熱狂はニュースで知ったものだった。 原信夫とシャープスアンドフラッツ、小野満とスイングビーバーズ、有馬徹とノーチェクバーナといったビッグバンドは、テレビ時代には、歌番組の伴奏が中心だった。 ちなみに『ザ・ヒットパレード』のレギュラーバンドは、指揮をしながら踊るというダンシング・コンダクターのスマイリー小原とスカイライナーズだった。ドスのきいた声で、“テキーラ!”とスマイリー小原が合いの手を入れる演奏は楽しかった。そういえば、スマイリー小原のオジサンは、二枚目俳優ばりに白塗りのメーキャップをして、いつもうれしそうな笑みを浮かべていたなあ。 ジャズ喫茶でコミック演奏をしていたクレイジー・キャッツも、この頃にはテレビの人気コメディアンになっていたし、ロカビリー三人男のひとりであった平尾昌晃も、「星は何でも知っている」で流行歌手になっていた。人気ポップス歌手から流行歌手になるという先駆けだったね。 水原弘、井上ひろし、守屋浩の“三人ひろし”もポップス歌手だったそうだが、私が知っているのは、「黒い花びら」(水原弘)、「雨に咲く花」(井上ひろし)、「僕は泣いちっち」(守屋浩)という歌謡曲を歌っていた“三人ひろし”だった。 ウエスタン歌手だった北原謙二も「若いふたり」で流行歌手になった。「アカシアの雨が止む時」の西田佐知子も、デビューはポップスの「コーヒー・ルンバ」だった。 しかし、なんといってもポップス歌手からスーパースターになったのは九ちゃん、坂本九である。ニキビ面のどこでもいそうなおニイさんだが、何ともいえない愛敬があった。 デビュー当時の九ちゃんが歌っていたのが、“~タイミン・ティカ・ティカ・ティカ・ツーユー……~”の「グッドタイミング」と、“~ヤムスタファ・ヤームスターファ”の「悲しき60歳」だった。 「悲しき60歳」の作詞は青島幸男。トルコの原曲に勝手に詞をつけたもので、トルコ語のオリジナルとは全く違うものだったんだよ。
日曜日の午後、昼食の後、何もすることがない時に、見るとはなしに見ていたのが 『ミッチと歌おう』だった。ミッチといったって三橋美智也じゃないよ。ミッチ・ミラーだよ。 適当に見ていた番組だが、記憶には鮮明に残っている。NHKが1963年4月から66年1月までの長期間にわたって放映していたこともあるが、黒い口ヒゲと顎ヒゲ(山羊ヒゲ)の小男が、肘を曲げた両手を身体の前で揺らす独特のスタイルで指揮する姿は、一度見たら忘れられないものだった。 ミッチのワンマン・ショー的な番組でなく、彼の合唱団と一緒に歌おうというスタイルをとっていた。合唱団も禿げたオジさんや、太ったオジさんといった、どこにでもいるオジさんたち20数名からなる男性合掌団だった。シンプルなハーモニーで、私でもよく知っている歌を、はっきりした発音で明快に歌ってくれたので英語の勉強にも役立った……というのはウソだが、それでも「クワイ河マーチ」や「史上最大の作戦」「大脱走」「黄色いリボン」「テキサスの黄色いバラ」「遥かなるアラモ」などの映画主題歌が流れた時は一緒に口ずさんだよ。 1960年代前半は、アメリカ製テレビ番組の全盛時代だが、音楽番組は殆ど放映されていない。その理由として、 ・本国アメリカでも音楽番組が少なかった。 ・音楽番組はドラマより放映権料が高額だった。 ・チャンネルの決定権を握っている日本のオヤジが相手では、アメリカの音楽番組では視聴率が期待できないと考えた。 ……などが想定されるが、はたして実態はどうだったのでしょうかねえ。 それはさておき、『ミッチと歌おう』以外で、私が観た音楽番組は『ペリー・コモ・ショー』だった。ナイターが中止の時の穴埋め的番組だったと記憶しているが、父親が見ていたので、何となく見ていた。司会者のペリー・コモが、芸達者なゲストと交じわす洗練された会話と歌は、これまでの日本の音楽番組にはないもので、“ショーの楽しさ”を子どもの私でも、感じとることができた。当然、芸能人やテレビ制作関係者などの玄人筋の評判を呼び、“バラエティー・ショー番組の見本”として、わが国テレビ界に多大な影響を与えたよ。『光子の窓』『夢であいましょう』などが、この番組を参考にしたことを後で知った。 景山民夫が「極楽テレビ」(新潮文庫)で、『ペリー・コモ・ショー』の構成の素晴らしさを述べていたが、『ペリー・コモ・ショー』にはグッドマン・エース以下5人の専属ライターがいたとのこと。ゲストの持ち味を最大限に発揮できる台本を書いていたわけだ。本格的なバラエティー番組がなくなった現在、ミュージック、コメディ、華やかな画面の三拍子そろった『ペリー・コモ・ショー』は、改めて観て見たい番組だ。
古き良き時代を思い出します。音楽の影響は沢山あります。 私の好きなバンドで「伊藤素道とリリオリズムエアーズ」のリトルダーリン・ローハイドのスリッパ演奏は最高でした。このコラムは毎回楽しみにしています。
投稿者 mr.swing : 2007年01月12日 15:51
名前:
メールアドレス:
URL: 保存しますか? はいいいえ
コメント: