第一回 我が家にテレビが届いたあの頃
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テレビが映った
「おっ!映ったぞ」という父の声に、庭で独りで遊んでいた私は、父のところへ跳んでいった。そこでは17インチのむき出しのブラウン管に、NHKのテストパターンが映し出されていた。1日の番組の開始前に映し出されていたアレである。NHKの技術マンであった父は、NHK広島の開局に合わせて、テレビを組み立てていたのだ。
1956年3月のことである。私は小学1年生であった。スピーカーを接続し、ケースに収納して、テレビとして完成したのは、それから3~4日後だったと思う。普通の家庭では、テレビは電器屋さんからやってくるものだが、わが家ではテレビは父の工作物だったのだ。テレビ工場さながら、自分の手で組み立てて出来上がったのである。
1953年にNHK総合、同年8月に日本テレビ、55年年4月にTBSテレビ(当時はKRテレビ)が開局しているが、これは東京のこと。当時テレビを見ることができたのは、首都圏、名古屋、近畿圏に限定されていた。56年になって、やっと広島、仙台、福岡、札幌といった地方の主要都市で、NHKのテレビ放送が開局されたくらいで、全国的にはテレビの映らない地域が多かったのである。
私がテレビを見はじめた頃は、当然チャンネルはNHK総合の一局のみであった。放送時間は、昼の12時ぐらいから始まり、夜の10時前には番組が終了していた。私の寝る時間は、9時と決められていたが、いつも布団の隙間から両親の見ているテレビを覗き見ていた。そして、睡魔が襲う前に、たいてい番組は終了していた。
58年3月に古い借家から、新築の県営アパートに転居した。民間放送(民放)の番組がわが家でも見れるようになったのは、その年の12月から。松山で南海放送という民放が開局し、当時住んでいた県営アパートの屋上にアンテナを設置し、受像できるようにしたからだ。
電波妨害となる山がなく、海で隔てられているだけだから、受信状況は悪くなかった。“皇太子(現平成天皇)ご成婚”に合わせて、翌年の4月に地元のラジオ中国テレビ(RCC)が開局する。この頃には、一部の地域を除いて、日本でテレビが映らない地域は無くなったのではないか……。
62年9月には、広島で二つめの民放テレビ局・広島テレビが開局する。これで、放映の曜日・時間帯は異なっても、東京で放映されている民放の人気番組は殆ど見ることができるようになった。
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外国テレビ番組が生活の一部だった |
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TVオタク第一世代にとって、外国テレビ番組の存在は、テレビの想い出を語るうえで大きな比重を持っている。現在では数少なくなった外国ものが、私たち少年時代はテレビ番組の主流だった。
外国製番組の第1号は、『ザッツTVグラフティ』(フィルムアート社)によると、NHKで1954年に放送された『テレビ・コンサート・ホール』という音楽番組だったらしい。ドラマは56年4月から始まった『カウボーイGメン』という西部劇。この年に11本の外国テレビ映画が登場したんだよ。テレビ放送初期においては、番組製作が間に合わず、番組の穴埋めに旧作の劇場映画を放映していた。しかし、テレビの普及に伴い、危機感を抱いた邦画各社がテレビへの作品供給を拒否したんだよ。58年9月以降、邦画作品はすべてのテレビから姿を消した。そこでテレビ側は、その代用として欧米からテレビフィルムをせっせと買いつけたんだね。
NTV、TBS、フジ、NET(現、テレビ朝日)と、東京の民放キー局が出揃った1959年から64年の6年間が、外国テレビ番組の全盛期だった。61年には、1週間に1.5本の割合で外国ものの新シリーズが放送されていた。これだけ外国番組が氾濫した背景には、国産の番組製作能力が低かったこともあるが、外国テレビ番組の方が安かったのだ。「この頃、日本のテレビ番組は30分のドラマ作りで40~60万円の製作費が必要だった。TV映画で70万円。これに対して外国フィルム
だと10万円でフィルム1本の権利料が買えた。これに日本語製作費を含めても15~16万円ですむのだ。国産に比べて4分の1の金額なのであった」(ザッツTVグラフティ)
簡単に海外旅行できる現在とちがい、当時の海外旅行は高嶺の花だった。外国を知るにはテレビしかなかった。それには外国のテレビ番組はうってつけだったね。アニメあり、西部劇あり、私立探偵・刑事ものあり、ホームドラマありと、アメリカの文化と海外の街や風景を、テレビを通じて居ながらに知ることができたんだよ。家電製品に囲まれた豊かなアメリカの中流家庭の生活は、日本人に新たな生活目標を与え、電化ブームを促した。西部劇はアメリカにおける正義の思想を教え、私立探偵は仕事と遊びのケジメを教えてくれた。アメリカにとっても、一番いい時代じゃなかったのかなあ。
1964年12月に国内テレビ受像機は1500万台を突破し、イギリスを抜いて世界第2位のテレビ国となった。翌65年から外国番組は急降下しはじめる。国民の生活水準があがり、国産のテレビ映画の水準があがり、国産アニメも登場し、国産主体で番組が構成されてきたとき、外国テレビ番組の使命は終わったようだ。 |
資料提供 : Nostalgic World |
 
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コメント
やぁ なかなか面白いコラムのスタートですネ。私達には、TVは欠かせない文化です。アメリカのライフスタイル・ファッション等、その影響の大きさは計り知れません。これからの、更新を楽しみにしています。宜しくお願い致します。
投稿者 江川 進 : 2006年11月21日 16:57
管理人です。コメントありがとうございました。
本当に、TVの登場は衝撃的でした。その現場に居合わせた私たちは、つくづくラッキーだったと思います。これからも、楽しく懐かしい話題が次々登場の予定です。是非ご愛読ください。
投稿者 管理人 : 2006年11月22日 10:28
TVは欠かせない私達の青春です。
「うちのママは世界一」を見て、将来主演のドナリードのようなママに憧れたものです。多くの番組・スターのお話をいまから楽しみにしています。
投稿者 菊村 洋子 : 2006年11月22日 14:06
私の外国TVのランキング西部劇1.ローハイド 2.バットマスターソン3.マーベリック。サスペンス1.サンセット772.サーフサイド63.ハアイアンアイ。ホームドラマ1.ビーバーちゃん2.パパ大好き3.陽気なネルソン一家等、次の更新を待っています。
投稿者 ローンレンジャー : 2006年11月22日 18:04
私の家にTVが届いたのは確か1959年だったと思います。当時は家長の祖父が大変厳しくあまり見させてもらえなかったような記憶があります。(夜は9時まで)今後、このシリーズでどんなTVヒーローが出てくるか、楽しみです。
投稿者 TVっ子 : 2006年11月24日 10:03
管理人です。
みなさん、本当によくご存知ですね。私もTVのヒーローを見て、将来あんなかっこいいヒーローになってやるぜ!と本気で思ってました。
投稿者 管理人 : 2006年11月24日 10:41
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