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第二十七回 世界への扉を開いたスイマー・千葉すず






(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21
 
オーストラリアのメルボルンで世界水泳選手権が開催されました。競泳日本人メダリスト第1号に輝いたのは柴田亜衣。ご存じアテネ・オリンピック800m自由形金メダリストです。競泳初日に400m自由形で日本新記録をマークして銅メダルを獲得しました。ここのところの日本人スイマーの大活躍は、ほんとうに素晴らしい。戦前のロサンゼルス、ベルリンの頃に匹敵する成績だと思います。でも、「自由形」という種目だけに絞って言えば、1930年代とか「フジヤマのトビウオ」といわれた古橋廣之進さん、メルボルン、ローマで活躍した山中毅さんのの頃には及びません。

「特殊種目」と呼ばれる「平泳ぎ」「背泳ぎ」「バタフライ」に比べれば、まだまだ日本人スイマーの泣き所であるわけです。長かった水泳・日本の低迷を打破したのは、1988年ソウル・オリンピックの背泳ぎ・鈴木大地の金メダルであったと思います。「大地さんに続け」とばかりに、若い有望なスイマーたちが雨後のタケノコのように登場、水泳・日本のレベルを世界と戦えるところまで引き上げました。

今回のメルボルンと同じように南半球で開催された1991年1月のパース世界選手権。一人の日本女子スイマーが、400m自由形で3位に入賞しました。15歳の千葉すずです。日本新記録を一気に2秒67も更新した千葉は、200mではA決勝に進めませんでしたが、B決勝ではA決勝2位の選手を上回る記録を叩き出し、一躍1992年のバルセロナ・オリンピックのメダル候補に浮上したのです。

日本人ばなれしたスタイルの良さ。大柄(身長170cm、体重57kg)なわりには顔が小さく美人スイマーだった千葉は、一躍時代の寵児になりました。それまでにないスター登場に、プールに群がるカメラマンは、競技なんかはそっちのけ、千葉一人を追いはじめたのです。若い千葉は、「まわりの人たちに迷惑がかかりますから、取材は遠慮してください」といっても大騒ぎは収束しません。いつしか千葉はカメラから目を背け、メディアを避けるようになっていきました。そんな千葉に対して、いつしかマスコミは「お嬢様」という称号で彼女を呼ぶようになり、「生意気な選手」というレッテルを貼ってしまいます。

バルセロナ・オリンピックの直前、千葉選手に取材したことがあります。小なスタジオで撮影しながら、インタビューしたのですが、巷間いわれている印象と実際の彼女が、まったく違っていることを知って驚きました。ちょっとシャイで、ハニカミやの普通の女子高校生というのが、そのときの印象でした。ただ、カメラマンの注文で水着でもないのに「タオルを肩にかけゴーグルを手にしてください」とお願いすると、「嫌です。だっておかしいですよ」ときっぱりと断ったのです。そう、彼女は日本人には珍しい「Noといえる日本人」だったのです。言われたことを素直に従う、そんな女の子ではなく、はっきりと自己主張できる選手だったのです。そうした事が「大人たち」にとっては、「生意気な小娘」みたいな印象に繋がっていったのでしょう。

そんな千葉選手は、いつしか日本選手団のまとめ役・姉御役のような立場を担うようになっていきました。周りの選手に気を使いながら、そして役員、監督、コーチに選手の意見を代弁する中間管理職のような役回りを任せられるようになったのです。もともと千葉選手は練習嫌いな上に、大舞台で今ひとつ実力を発揮できないタイプの選手でした。パースの世界選手権での好成績は、「なにも分からないうちに表彰台に上がっていた」という感じだったそうです。

一時は「国内大会よりも海外の大会の方が力を発揮するタイプ」ともいわれましたが、海外の大会ではプレッシャーがなくて泳ぎやすかったのでしょうか。ただ、オリンピックでは自分のことよりも後輩たちが泳ぎやすいように気を使っていました。最初のオリンピックだったバルセロナでは、100m自由形が9位、200m自由形が6位、400m自由形が8位とそこそこの成績だったのにも関わらず、期待が大きかっただけに「千葉、惨敗」との評価を下されてしまいました。ただ、この大会では女子200m平泳ぎで岩崎恭子が優勝、14歳の少女が「これまで生きてきた中で、今が一番幸せです」とコメントしたことで、いっきに恭子フィーバーが起こりました。すっかり千葉の存在など忘れ去られてしまったのです。最初のオリンピックで、大会前には持ち上げるだけ持ち上げておいて、世界の壁にぶつかった瞬間に梯子をはずしてしまう。そんな日本メディアに対し、千葉は大きな不信感をいだいたようでした。

それでも千葉は、日本女子自由形を代表するスイマーではあり続けました。1993年は日本選手権で三冠王、1994年には200m、400mで連覇。1994年は100mで優勝、200mと400mで2位と、押しも押されもせぬトップスイマーの地位を守り続けたのです。そして1994年には近畿大学付属高校を卒業、勇躍アメリカに留学します。

1996年のオリンピックイヤー、全米選手権の女子200m自由形で優勝するという快挙を達成。いよいよオリンピック女子自由形種目でメダルを狙えると期待され、女子チームのキャプテンを任されました。春先から日本チームはシーズン最高記録を連発、その好調さに「今度こそメダルラッシュ」と日本のメディアは煽り立てました。ところが、アトランタ・オリンピックで水泳・日本はメダル0の惨敗。千葉もA決勝に残れず200m自由形は10位、400m自由形は13位に終わりました。そして、不振の後輩たちをかばうつもりで語った、「アトランタ・オリンピックを楽しむつもりで泳ぎました」という言葉が誤解を生み大バッシングを受け、千葉は一時、一線から退きました。

オリンピックの翌年、アメリカの永住権を獲得した千葉は、ロサンゼルスで子どもを対象とするスイミングスクールを起こします。しかし、競技者としての夢を捨て切れず1998年9月に現役復帰を表明、練習を再開します。果たせるかな翌年6月の日本選手権では100m、200m自由形では日本新記録をマークして優勝、シドニー・オリンピックの年の4月に行われた日本選手権でも200mに優勝、オリンピックA標準記録を突破し、3回連続のオリンピック出場は確実と思われていました。

ところが日本水連が発表したシドニー・オリンピックの代表選手の中に「千葉すず」の名前はありません。ある水泳連盟幹部の「千葉すずは日本選手権をなめている」といった発言からでも分かるように、なんらかの作為的な選出方法があったのだろうと噂されていました。千葉は、「そんなに私が嫌われているとは。その時はじめて気が付きました」と語り、泣き寝入りをせず、スポーツ仲裁裁判所に、水泳連盟の決定を覆すよう提訴します。もちろん、オリンピックの代表を賭けての裁判など、日本史上初めてのことでした。結果は覆りませんでしたが、先輩後輩といった年功序列の世界が支配する日本のスポーツ界に、毅然とした判断を求めた彼女の行為は、まさに革命的な出来事でした。千葉は再び指導者としての道を歩みはじめますが、2002年にイトマンスイミングクラブの後輩でアテネ・オリンピックの男子200mバタフライの銀メダリストになる山本貴司と電撃結婚。家庭に入って2005年の7月には長男を、そして今年の3月には長女を出産。よき妻、よき母になっています。

アテネ・オリンピックでは、彼女の後継者・柴田亜衣が800m自由形で金メダルを獲得。日本女子自由形で金字塔を打ち立てます。千葉すずがパースで銅メダルを獲得してから13年目のことでした。橋本聖子のように国会議員になりながら母親になる人あり、千葉すずのようにきっぱりと家庭人になって母親になる人あり。まさに「人生いろいろ」です。いまでもイルカのようにダイナミックだった千葉すずの泳ぎを思い出します。日本人でも自由形で活躍できると実証してみせた得難いスイマーだったと、今でも思っています。




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コメント

この人は、正直で、まっすぐな人なんだなあ、と思って見ていました。生き方は下手かもしれないけれど、一生懸命さが、かっこよかったです。

投稿者 平林健 : 2007年04月03日 11:12

私も中学まで水泳をやっていました。千葉すずさんのファンで良きお手本でした。最近では、水泳日本の復活で何と頼もしい選手が多いことか。今後のオリンピック等がとても楽しみです。ガンバレ日本・・・・・

投稿者 吉田 照子 : 2007年04月24日 16:59

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