| 2月から3月にかけて北海道札幌で、世界ノルディック選手権が開催されました。日本ではマイナーなノルディックスキーの世界選手権。なぜ札幌で? と思われる方も多いでしょう。
ノルディックスキー競技は、大別して雪原の山野を走るクロスカントリー、特別に作られたシャンツェで飛んだ距離とフォームの美しさを競うジャンプ、そして一人でクロスカントリーとジャンプを行うノルディック・コンバインド(複合)の3種目があります。長野オリンピックに至る10年、日本はクロスカントリーだけは世界のレベルに追い付けませんでしたが(これだけマラソンが盛んで強い日本が何故スキーをはくと弱いのか不思議です)、ジャンプと複合は世界のトップレベルにありました。世界選手権のような大きなイベントを誘致しようとすると、長い年月が必要になります。日本が強い時期に世界選手権誘致に乗り出した札幌でしたが、実際に開催する時には弱くなってしまったというのが実情です。
1972年、札幌オリンピック。「日の丸飛行隊」が世界のトップレベルに立ち、70m級純ジャンプ(現ノーマルヒル)では金銀銅メダルを独占した日本。しかし、複合では期待の勝呂誉が5位入賞に留まりました。複合は日本人にとって苦手なクロスカントリーがネックでした。ところが1991年イタリアのヴァルディ・フィエンメで開催された世界選手権で、日本複合団体チーム(阿部雅司、三ケ田礼一、児玉和興)は銅メダルを獲得します。その後、若手で台頭してきたのが、後に日本のエースになる荻原健司でした。荻原は、ジャンプで世界の主流になる前の「V字ジャンプ」をいち早く取り入いれ、ノルウェーに単身留学してクロスカントリーに磨きをかけました。
果たせるかな、1992年のアルベールビル・オリンピックで河野孝典、三方と出場したノルディック複合団体で金メダルを獲得。個人でも7位入賞を果たします。ここから日本ノルディック複合チームの快進撃が始まりました。じつはアルベールビルで記者カードをぶら下げて現地で取材していた白髭は、苦い思い出があります。複合団体の前半ジャンプでトップに立っていた日本チームを取材するか、それとも金メダルの可能性が高いスピードスケート男子1000mを取材するか。迷ったあげく、スピードスケートのリンクに行ってしまったのです。複合は後半クロスカントリーが弱いから逆転される。まあ、銅メダルが精々だろうと高をくくってしまったのです。
ところが複合団体は金メダル。日の丸をグルグル回しながらゴールインする荻原健司を見逃してしまいました。わたしが取材したスピードスケート男子1000mは、宮部行範の銅メダル1個に終わってしまいました。荻原健司は、1993年、94年、95年とワールドカップ個人総合3連覇。93年スウェーデンのファールンで開催された世界選手権で、個人と団体に優勝。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いで世界の頂点に立ったのです。スキーの世界では、瞬発力と勇気を必要とするジャンプと、持久力と根気を必要とするクロスカントリー。まったく異なった種目をこなすノルディック複合のチャンピオンを「キング・オブ・スキー」と呼び称える習慣がありますが、まさに荻原健司は「キング」になってしまったのです。
そしてディフェンディング・チャンピオンンとして迎えた1994年のリレハンメル・オリンピック。個人戦の前半のジャンプで荻原は大失敗。後半のクロスカントリーで追い込みましたが(この頃になると荻原はジャンプよりもクロスカントリーが得意になっていました)、わずかにメダルに届かず4位(チームメイトの河野孝典が銀メダルを獲得しました)。団体戦は阿部、河野、荻原のリレーで見事に2連覇。しっかり取材した白髭は、はじめて日本選手のオリンピック優勝を取材したのでした。
この時の優勝記者会見の場面も忘れることはできません。当時、ある女性と結婚を前提にお付き合いをしていた荻原に対して、写真週刊誌の記者が、「事の真偽はどうなのか?」と質問したのです。荻原は堂々と、「そのような報道が日本国内でされているのは知っています。しかし、今日は今大会で初めて日本選手が金メダルをとって、選手である我々にとっても、取材をしたジャーナリストの皆さんにとっても、とても大切な日です。その大切なことを報道していただきたいと思います」と答えたことでした。わたしの知る限り、それまでジャーナリスト対してこんなにはっきりコメントできる選手はいませんでした。
リレハンメル・オリンピック後、あまりの日本の強さにFIS(国際スキー連盟)はルールを変更。ジャンプでのポイント比率を下げ日本バッシングに走ります。また、荻原個人の力もリレハンメル・オリンピックをピークに下がりはじめますが、経験を生かしてワールドカップ、世界選手権で勝ち続けます。95年カナダのサンダベイ世界選手権では団体優勝、97年ノルウェーのトロンハイム世界選手権では奇跡の個人優勝、そして日本選手団主将として臨んだ98年の長野オリンピックでは、参加全選手を代表して選手宣誓の大役も果たしました。双子の弟・次晴と参加した地元・長野のオリンピックでは個人4位、団体5位とメダルには届きませんでしたが、「キング・オブ・スキー」の誇りは十分に見せてくれました。
荻原健司は2002年ソルトレイク・オリンピックまで現役を続行、ついにワールドカップ通算19勝(フィンランドのハンヌ・マンニネンに次ぐ史上2位の記録)の大記録を達成して現役生活にピリオッドを打ちました。2004年、荻原健司は参議院議員選挙全国比例制に自民党から立候補。見事に当選して政治家に変身。現在、スポーツ振興や教育問題に力を注いでいます。前回とりあげた橋本聖子さんと同様、長くオリンピックに出場。金メダル2個獲得の実績をひっさげての政界入り。今後、政治の世界でも活躍を期待される思い出に残る名選手ということは間違いないことのようです。
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