| スポーツマンなら誰でもオリンピックに1回は出場したいと思うはず。そのオリンピックに7回も出場しているスーパーウーマンが日本にはいます。その人は現在、参議院議員で日本スケート連盟会長も務める橋本聖子さんです。冬季はスピードスケートでサラエボ(1984年)、カルガリー(1988年)、アルベールビル(1992年)、リレハンメル(1994年)の4回。夏季は自転車競技でソウル(1988年)、バルセロナ(1992年)、アトランタ(1996年)の3回で、計7回のオリンピックに出場しています。ちなみにオリンピック最多大会出場者は、イタリアのレイモンド・ディンツェオの8回だそうです。橋本さんの記録は、それに次ぐ記録で、女子選手では最多です。私は、橋本さんが参加したオリンピック7回のうちサラエボを除く6回を現地で取材しています。それだけに親しみのある選手でもあります。
最初に彼女を取材したのは、1986年の第41回国民体育大会冬季スケート競技大会でした。場所は山梨県富士吉田市の富士急ハイランド。富士急に所属していた橋本選手の、ホームリンクでの大会でした。その後、このスケートリンクは「セイコオーバル」と名付けられました。この大会前夜、CNNニュースではスペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故が放送されていました。それだけに私にとっては印象が深い国体でしたが、橋本選手は慣れない国体ローカルルールのオープンコースでも、地元の観衆の大声援に応える活躍を見せてくれました。橋本選手は、「太腿を四つ持つ女」といわれていたとおり、全盛期は同時代のアイドル松田聖子のウエストよりも太い太腿の筋肉を持っていました。しかし、幼少期には腎不全、青年期には肝不全と呼吸不全で悩んでいたといいます。東京オリンピックの聖火からヒントを得て「聖子」と名付け(東京オリンピック開幕直前の1964年10月5日生まれ)、スパルタで育てた父・善吉さんも一時は、「聖子、もうスケートは辞めろ」と引退を勧めたほど病弱であったそうです。後年、鉄人のような活躍ぶりを見せた橋本選手を知っていると、信じられませんね。
1988年2月13日。第15回カルガリー冬季オリンピックが開幕しました。わたしが現地で取材した初めてのオリンピックでしたが、開会式で日本選手団の旗手を務めたのが橋本選手でした。この大会で橋本選手はスピードスケート5種目に出場。500mで5位、1000mで5位、1500mで6位、3000mで7位、5000mで6位。全種目に入賞したのは橋本選手だけでした。もしオールラウンド、総合なんて種目があれば間違いなく金メダルを獲得していたはずです。
スピードスケートの夏のトレーニングとして自転車を利用していた橋本選手は、1988年のソウル大会から女子にも自転車競技のトラック種目が正式に採用されたのを契機に、夏季オリンピックにも照準を合わせます。そして、見事に国内予選を勝ち抜きソウル・オリンピック出場を果たします。1000mマッチスプリントにエントリーしたのですが、経験不足は如何ともしがたく1次予選と敗者復活戦で敗退してしまいます。それでも聖火ランナーを務め、オリンピックムーブメントにも貢献しました。
そして、スピードスケートでメダルに挑んだのが、4年後のアルベールビル冬季オリンピックでした。フランスではスピードスケートがマイナーで、スタンドは架設、リンクの環境もよくありませんでした。氷の一部が溶け出したり、氷の中に土が混じったりと最悪のコンディションでした。橋本選手がもっとも得意としていてメダルに近かったのが1000mでした。3000mで12位、500mで12位と失敗したあと臨んだ1500m。2月12日は気温が高く氷が解けて開始時間を1時間遅らせる悪コンディション。3組目に登場した橋本選手はスタートから積極的に飛ばし300mを目標の36秒台で通過、終盤も懸命の力走でゴールし、記録は2分6秒88。トップはジャクリーヌ・ベルナー(ドイツ)の2分5秒87、2位はグンダ・ニーマン(ドイツ)の2分5秒92。強豪のポロズコワ(ロシア)、ガルブレヒト(ドイツ)らの記録は橋本選手の記録に及ばず、橋本選手がついに銅メダルを獲得しました。
「まさか1500mでメダルが取れるとは思いませんでした。昨シーズンから、ひざの故障でトレーニング不足。苦しいシーズンでしたが、最後までレースを諦めなかったのがメダルにつながりました」と橋本選手はインタビューに答えてくれました。橋本選手を手塩にかけて育ててきた長田照正コーチは、「神様が、これまでの橋本の努力に対して銅メダルを贈ってくれたんでしょう」と語っていましたが、まさにその通りのメダルであったと思いました。一番期待された1000mは結局5位、最終種目の5000mも9位に終わります。しかし、富士急の後輩、戸田則子選手といつもどおりリンクをゆっくり一緒に滑っていたのが印象的でした。その年の夏、バルセロナ・オリンピックでは再び自転車競技で夏の大会に挑戦した橋本選手は、3000m個人追い抜きに出場したものの予選で敗退。しかし、1992年は冬の銅メダルを獲得したことで十分に満足できるものでした。
冬季オリンピックは、第17回のリレハンメル大会から夏とは異なる年の分離開催が決まり、1994年に開催されることになりました。橋本選手にとっては4回目の冬の大会。すでに29歳になっていた橋本選手は、スプリント500mの出場権を後輩に譲り、ターゲットを中長距離に絞りました。最初の3000mで6位入賞を果たし、前回銅メダルを獲得した1500mでは9位、1000mで21位、最後の5000mでは8位入賞で花道を飾りました。このレースでは山本宏美が3位に入賞、銅メダルを獲得しました。取材していて感じたことは、“お姉さん選手役”として橋本選手が見事に援護射撃をしたことです。
その後の橋本選手は、スーパーアスリートからスーパーレディーに変身していきます。1995年7月に参議院議員自民党比例区代表で初当選。国会に登場します。翌年のアトランタ・オリンピックには再び自転車で出場。午前3時に起きてトレーニング。午前9時から国会に登院して、再び夜はトレーニング。ついに3回目の夏季オリンピック出場を果たしました。そして3000m個人追抜きで12位、2万4000m女子ポイントレースで9位と入賞まで後一歩、世界にトップレベルに肩を並べるところまで登りつめ、アスリートを引退しました。
橋本選手は、アトランタ・オリンピックの2年後、12月19日に皇室関係のSPを勤める石崎勝彦さんと結婚。石崎さんは3人の子持ちであったため、結婚と同時に3人の母親に。そして2000年に三女せいかちゃん、04年には二男・亘利翔(ぎりしゃ)くん、そして06年には三男・朱李埜(とりの)くんを出産。6人の子どもたちの母親になっています。母親、国会議員の傍ら、2006年6月には一連の不祥事で揺れた日本スケート連盟の新会長に41歳の若さで就任。日本スケート連盟の名誉挽回、汚名返上のために立ちあがりました。
橋本聖子さんが現役選手として活躍していた時期と、わたしのオリンピック現地取材の時期はぴったりと重なりあっています。なにか因縁を感じてしまいます。また、橋本選手のような素晴らしいアスリートと出会って、楽しい取材をしていきたいと思っています。
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