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第二十二回 高校サッカー伝説の名勝負






(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21
 
年末年始をまたいで行われる大学、高校のスポーツ。なかでも全国高校サッカー選手権と全国高校ラグビー大会は、春・夏の高校野球と並んで注目を集めるイベントです。やはり「郷土の代表」が、「メッカ」と呼ばれる競技場に一堂に会して戦うのが故郷を思う気持ちの強い日本人の心の琴線に響くのでしょうか。

この高校サッカー選手権と高校ラグビー大会、もともとは同じ大会であったことはあまり知られていません。大正7(1918)年、大阪毎日新聞社が「日本フートボール大会」として関西を中心に開催したのが、そのルーツです。サッカーは「ア式の部」、ラグビーは「ラ式の部」として行われました。その後、大正15(1926)年に「全国中等学校蹴球大会」として予選制の全国大会に生まれ変わり、現在の大会に歴史が引き継がれてきたのです。ただし、第2次世界大戦中の昭和18(1943)年にはラグビーだけが行われ、サッカーは行われませんでした。ラグビーは敢闘精神を養うために有用との理由で、軍部に開催が認められていたため、現在はラグビーが86回、サッカーは85回となっています。戦後、昭和23(1948)年の学制改革により、両大会は「中等学校」から「高校」の大会に生まれ変わり現在に至っています。

さて、昭和51(1976)年度の第55回から全国高校サッカー選手権は、会場をそれまでの関西から、首都圏に変えました。諸般の事情により、毎日新聞社が主催から外れ、その後を引き継いだ日本テレビ放送網、高体連サッカー部、電通などの意見が一致しての結論でした。当時のサッカーはマイナースポーツで、「なにか発展の起爆剤はないか」という提案の中で「思いきって首都圏に会場を移したら良いのでは」と意見がまとまったことによるものでした。もちろん、大正年間から45回も大会を主管してきた関西のサッカー関係者からは、かなりの反発があったそうです。しかし最後は、高体連サッカー部部長(当時)故松浦利夫の判断によって首都圏開催となったのです。目玉は、なんといっても準決勝、決勝をサッカーの聖地・国立競技場で行うということでした(この年は東京都と埼玉県での開催。その後、神奈川県、千葉県が加わる)。全国から集まった31チーム(現在は48チーム)が、ノックアウトシステムで覇権を争いました。

当時は、埼玉県と静岡県が日本サッカーの頂点を競っていました。この年の埼玉県代表はディフェンディングチャンピオンの浦和南高校。そして静岡代表は新興の静岡学園高校でした。浦和南は、昭和44(1969)年度に高校総体、国体、選手権の三冠に輝き、アニメ「赤き血のイレブン」の原作モデルになったほどの有名校。「鬼松」と称された松本暁司監督の指導は、バレーボールの「鬼の大松」と並び称されるほどの厳しさであったといいます。関西開催最後の大会にも優勝し、2連覇を狙っていました。この大会、1回戦は前回優勝のためシードされ2回戦から参戦。遠野を3-1、川島を3-2 、準決勝では帝京と0-0と引き分けたものの、PK方式4-3で勝者扱いとなり、決勝戦への進出権を得ました。対する静岡学園は、この大会が初出場。井田勝通監督は教員ではなく(学校職員)、銀行員から指導者に転身した当時としては珍しいプロ監督。ブラジル仕込みのテクニックを徹底的にチームの戦略に浸透させていました。1回戦は都城工を6-0、2回戦は神戸を5-0、3回戦は韮崎を2-1、準決勝は八幡浜工を3-0で下し、危なげなく決勝に進出してきました。

決勝戦は、この両者の対決が話題を呼び、国立競技場には4万を越える観衆が集まりました。当時の日本サッカー界では珍しいことでした。そして、試合は期待に違わずすばらしい展開になりました。浦和南のスターティングイレブンは、GK町田。FB田中、内田、渡辺、森田。HB河崎、広羽、野崎。FW水沼、加瀬、筋野。静岡学園の先発は、GK森下。FB杉山茂、八木、神保、杉山誠。HB杉山実、落合、三浦。FW有ケ谷、宮本、宮原。開始1分、やや有利と思われていた浦和南が先制。そのままの勢いで浦和南は、16分までに3点を連取、あっという間に3-0とします。見事な浦和南の先制パンチでした。しかし、静岡学園は慌てませんでした。ドリブルを多用してゆっくり攻める、時には自陣までボールを戻してボールを確保し続ける。現在でいえば「ボールポゼッションをあげる」サッカーを押し通したのです。前半に1点を返した静岡学園は、後半に勝負の興味を繋ぎました。

ハーフタイムを3-1で迎え、後半に入っても展開は変わりません。浦和南はボールを奪えば、すばやくボールを前線にパス、水沼(現横浜F・マリノス監督)の速い攻撃を生かします。後半7分に4点目をゴール。勝負はあったかと思われました。ところが静岡学園も勝負を諦めません。2分後には2点目をあげて猛反撃に出ます。井田監督はベンチに仁王立ちになり、「あわてるな、ゆっくりだ。ゆっくり攻めろ。もっとゆっくりだ。もっとゆっくり」と絶叫しだしました。浦和南が再びゴール。5-2としましたが、井田監督と静岡学園イレブンはあきらめません。30分、37分に2点を返し、ついに5-4と1点差。この大逆襲には、百戦錬磨の浦和南・松本暁司監督も、「自分の心臓の鼓動が聞こえてくるようだった」と後に語っています。完全に静岡学園ペースになった試合でしたが、静岡学園には時間がありませんでした。40分ハーフの高校サッカー(現在は決勝戦のみ45分)。ゆっくり攻める静岡学園には不利だったのかもしれません。

浦和南は史上5校目の高校選手権連覇の偉業を達成しましたが、むしろ敗れた静岡学園のサッカーの方が強烈な印象を残しました。敗れたこと、一度もリードを奪えなかったことで高校サッカーの歴史の中で埋もれてしまいましたが、静岡学園のサッカーが日本サッカー界に1つのエポックをもたらしたことは間違いありません。首都圏最初の大会の決勝戦が好勝負になったことで、高校サッカーは絶大なる人気を得ることができました。

あれから30年。前回の選手権では滋賀県代表の野洲高校が「セクシーフットボール」と呼ばれる新しいサッカーで「静岡学園の再来」と呼ばれ、見事に大会を制しました。ここ10年間、国見、市立船橋、東福岡、鹿児島実業などの常連校でタライ回しされていた高校選手権の覇権が、やり方次第で新しい試みをする高校に手に届くことが証明されたのです。まさに「高校サッカー戦国時代」に入りました。今回も「みちのく」の盛岡商業が、40年ぶりに東北地方に優勝をもたらしました。原動力になっているのは、たぶん31年前の首都圏開催を大成功に導いた井田監督と静岡学園が見せた“新しい挑戦”であったと思います。岩手県・盛岡商業と岡山県・作陽という、開催地の地元とは全く関係ないカードに3万5939人もの観衆を集めました。それは「高校サッカーは面白い」と思わせる何かがあるからでしょう。そしていつも頭に浮かぶのは、31前の浦和南vs.静岡学園の試合です。語り継がれる永遠の試合。そんな試合があることが高校サッカーにとっては財産であり幸福なことだと思えるのです。




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