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第二十一回 ラガーマン宿沢広朗さんを悼む

(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21
 
冬になるとウインタースポーツの話題が多くなります。わたしがスポーツジャーナリストとして最初に関わりを持ったスポーツがラグビーでした。その関係で、冬になればラグビー場に通うことが多くなります。そんな時、ふと「ある人」ことを思い出します。その人、宿沢広朗さんには、もうお逢いできなくなってしまいました。

今年6月、FIFAサッカーワールドカップをドイツで取材中のことでした。大学時代以来の一人の友人から、わたしは、ある人の訃報の記事をメールを受け取りました。
『ラグビーの日本代表監督を務めた宿沢広朗さんが6月17日、心筋梗塞(こうそく)で死去した。55歳だった。通夜は21日午後7時、葬儀は22日午前11時から東京都中央区築地3の15の1の築地本願寺で。喪主は妻洋子さん。自宅は公表していない。友人と群馬県内に山歩きに出かけ、下山中に倒れて病院に運ばれたという』驚きました。生前たいへんお世話になった、あの宿沢さんが? 結局、仕事の関係で帰国して葬儀に列席することは叶いませんでした。学生時代、わたしは早稲田大学ラグビー部のおっかけのような事をやっていました。早稲田の試合はもとより、時間がある限り練習グラウンドである東伏見に足を運んでいたのです。

宿沢さんの早大時代の生のプレーは、テレビでしか見ていません。地方の弱小高校でラグビーを楽しむ程度にプレーしていたわたしにとっては、憧れのプレーヤーでした。宿沢さんも熊谷高校というラグビー無名校の出身。一般入試で早稲田の政経学部に合格した頭脳明晰な人でした。東大入試が大学紛争の影響で中止になっていなければ、東大に進んでいたともいわれています。宿沢さんが大学3年生の時の日本選手権。対三菱自工京都戦でノーサイド直前、SH宿沢、SO中村とつなぎCTB佐藤が蹴ったショートパントがワンバウンドしてすっぽりWTB堀口の胸に入って奪った逆転トライは印象的でした。新聞などマスコミでは「ラッキーバウンドでのトライ」などど書かれましたが、宿沢さんは、「あんな風にバウンドするよう練習した結果のトライ。けっしてまぐれじゃない」と語っていたのが記憶に残ります。そして自身がキャプテンを務めた4年生時。大学選手権決勝でノーサイド直前、明大に逆転負けを喫します。当時は2年生だった明大の松尾雄治がトイメンのSH。マークする宿沢さんは鮮やかにブラインドサイドを抜かれました。松尾はWTB堀口を十分にひきつけ渡辺貫一郎にパス。渡辺がインゴールに飛び込みました。

明大サイドのタッチジャッチ(当時は対戦チームのOBがタッチジャッチを務めるのが普通だった)が「万歳」をしたことで、トライしたWTB渡辺がタッチを割ったのではないかといわれ「疑惑の逆転トライ」ともいわれました。しかし宿沢さんは、「あそこまで早稲田がボールを持ち込まれたら負けです」と潔かったのです。それも強烈な印象で残っています。卒業後、宿沢さんは住友銀行に入行し、すっぱりと現役ラガーマンを諦め、銀行マンの道を歩みました。1977年末、ロンドン支店に転勤した宿沢さん、やはりエリート中のエリートだったのです。翌年春、わたしは卒業旅行でロンドンを訪問しました。わたしの古ぼけた黒皮の学生手帳をみると1978年3月6日のところに「Moorgate→Bank(Sumitomo)宿沢氏に逢う」と書かれてありました。その時、若かったわたしは、宿沢さんに逢いたい一心で、無理を承知で住友銀行ロンドン支店に電話をしてしまいます。電話番号は、どうやって調べたのか憶えていませんが、たぶんホテルの人に聞いたか、電話番号簿で調べたのでしょう。

それまで宿沢さんとは顔見知り程度でしたが、とても海外に行ってまで訪ねていくほど親しい仲とはいえませんでしたた。電話で宿沢さんは、「とりあえずオフィースまで来てみませんか」と誘ってくれました。すぐにシティーにある支店を訪ねると、小柄な宿沢さんが満面の笑みを浮かべて迎えてくれました。「よく訪ねてきてくれたね」と握手してくれ、百年来の知己のように歓迎してくれました。その日の夕方からスコットランド方面に行く予定のわたしを、「その予定やめて、飯でも食べませんか」と誘ってくださいました。翌日、わたしはサッカーのメッカ・ウエンブレースタジアムを訪問、大英博物館を観たあとロンドンのヒルトンホテルで宿沢さんと再会。レストランで早めの夕食を共にしました。わたしが英国名物のミックスグリルを注文しようとすると宿沢さんは、「イングランドの料理は美味しくないから、僕にまかせて」といって料理をチョイスしていただきました。当時のわたしにとっては、見たことも食べたこともない料理ばかりでしたが、どれもこれも絶品でした。

そのあと、ご自慢の2シーターのスポーツカーでロンドン市内をドライブしてくれて、最後にご自分が住んでいるフラットにまで連れて行ってくれました。そして最後に宿沢さんは、「僕がロンドンで、こんなに良い生活をしているなんて、あんまり言わないでね」と少年のような笑顔をみせつつ、握手をして別れました。その12年後、低迷が続いた日本代表の監督に宿沢さんが就任。1989年5月28日、秩父宮ラグビー場での対スコットランド戦で、宿沢ジャパンは国際ラグビーボードに正式加盟している国に24対28で初勝利。スコットランドとの対戦が決まっていた時から宿沢さんは「この試合、絶対に勝てます」と公言していました。

それは、ロンドン時代から7年に渡って築きあげたネットワークを駆使しての結果でした。試合後に宙に舞った宿沢さんは、直後の記者会見で高らかに胸を張ってひとこと。「お約束どおり、勝ちました。ね、だから勝つっていったでしょ」。その顔は、ロンドンで見せてくれた少年のような笑顔と同じでした。次にその笑顔を目にしたのは、2年後のワールドカップの時でした。初戦、敵地スコットランドのエジンバラ・マレーフィールドで戦った宿沢ジャパンは、前半こそ9対17の大善戦。しかし後半崩れて9対47の大敗。続く第2戦はアイルランドとの対戦。ダブリンのダウンズドンロードで、前半6対19、後半10対13の計16対32の惜敗と言ってもよい戦いでした。アイルランドは徹底したフォワード攻めで、日本の展開力を封じてしまったのです。

この2試合を現地で取材したわたしは、記者会見が終わったあと、宿沢さんにこっそり聞いてみました。「勝てる、と信じていたんですが」。その時でした。また少年のような笑顔を浮かべながら、宿沢さんは語ってくれました。「あいつらホームじゃ負けないよ」。ロンドンで7年間ラグビーを実感してきた宿沢さんらしい本音でした。その6日後、北アイルランドのベルファースト・レイベンヒルでジンバブエと戦った宿沢ジャパンは52対8で快勝、日本のワールドカップ初勝利を飾りました。わたしは残念ながら、その歴史的瞬間には立ち会えませんでた。他の取材の都合で、第3戦を見ることなく帰国してしまったからです。たぶん、その時ベルファーストにいれば、再び宿沢さんの少年のような笑顔に出会えただろうに……。それだけが心残りです。なにしろ、その勝利は、日本代表がワールドカップであげた唯一の勝利なのですから。 

ワールドカップでの唯一の勝利を土産に、宿沢さんは日本代表監督を辞し、再び本業の銀行マンに戻りました。とんとん拍子に出世され、住友銀行大塚支店の支店長になったと聞いた時、近くの出版社によく出入りしていたわたしは、アポイントも取らずに宿沢さんを訪ねたこともありました。受付で「宿沢支店長にお会いしたいのですが」と尋ねると、「あのぉ~宿沢は、大塚駅前支店の支店長なんですが……」と丁重に言われたことも、わたしだけの懐かしい思い出の1つです。その後、宿沢さんとの接触はありませんでしたが、毎日新聞社刊『ザ・ラグビー』の仕事で、久しぶりに宿沢さんに1998年1月に再会しました。考えてみればゆっくりお話しするのは、ロンドン以来20年ぶりのことです。そのときは「元日本代表監督・宿沢広朗の分析」という企画で、そのシーズンの大学ラグビーの総評みたいなものをしゃべっていただき、わたしが構成するというものでした。たしか大学選手権決勝(1月10日)の直後に、国立競技場の会議室でインタビューをしたと思うのですが、すでに宿沢さんも50歳に手が届く年齢、わたしも40歳なかばになっていました。

「やあ、久しぶり」といってから、宿沢さんはスラスラとそのシーズンの大学ラグビーを総括してくれました。内容的には、「明治の壁を破った、質の高い関東学院のラグビー」みたいなものでしたが、文末に厳しいコメントがありました。「最後に母校・早稲田に苦言を呈したい。今シーズンの早稲田は、完全にチーム作りに失敗した。部員の怪我があったとはいえ、シーズンが深まってから突然、WTBをSOにコンバートしたり、指導陣に迷いがみえた。また基礎プレーとくにタックルが弱く、セットプレー(スクラム、ラインアウト)の習熟度も低かった」。

早稲田は小泉主将(1995年度)、中竹主将(1996年度)の世代に明大に大学選手権の決勝で連敗。このシーズン(1997年度)の早稲田は、大学選手権の2回戦で大畑大介のいた京産大に18対69と敗れていました。この後、2000年に清宮克幸が監督に就任するまで一時低迷しまいます。宿沢さんは本気で母校を心配していました。その時は、ついに少年のような笑顔は見られずしまいでした。それが宿沢さんと長時間話した最後のような気がします。宿沢さんが金融ディラーとして活躍されていることなど、テレビ報道で存じ上げていましたが、大阪に転勤されていましたし、わたしもラグビーの仕事がめっきり減ってしまい、お逢いできなくなっていました。そして、このたびの訃報です。あのロンドンでお逢いした日から30周年後、2008年にも、またお互いに元気でお逢いできるものと信じていたのに……。お友達と登山中に逝ってしまうなんて、「宿沢さん、早すぎますよ」というのが偽らざる心境です。

聞くところによると、告別式でご遺族は、一切香典、献花料といったものを受け取らなかったそうです。いかにも宿沢さんらしいお別れの式だったようです。再び代表の強化担当にもどり、日本ラグビーの舵取りとして、まさにこれからというときの訃報。かけがえのない人物を亡くした感じです。なにか、わたし自身の青春もどこかに行ってしまったようです。どうか、安らかに、宿沢さん。合掌。

ゴルフダイジェスト・オンライン

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