| 12月1日から15日まで、カタールのドーハで第15回アジア競技大会が開催されました。39競技424種目が実施されるという、オリンピックをも凌ぐ世界最大の総合スポーツ競技大会です。チェスまでが正式競技に採用され、きちんとドーピングまでされるというから驚きです。わたしが、アジア競技大会を初めて取材したのは1986年、第10回ソウル大会でした。たしか日本体育協会のオフィシャルツアーの一員として参加したのですが、当時の東亜国内航空(後のJAS。現在はJALに経営統合)の国際線一番機で大阪・伊丹空港 からソウル・金浦空港まで行きました。その時、現在の伴侶がフライトアテンダントとして同機に搭乗していたことが、後になって判明しました。
国際的には冷戦のまっただ中にあったため、韓国の警備が非常に厳重だったのが強く印象に残っています。開会式は土砂降りの雨の中で行われ、聖火台にとまっていた鳩が聖火の点火と同時に「焼き鳥」になりポトリと地面に落ちたことも、心の奥に残っています。4年後の1990年。第11回大会は中国の北京で行われました。わたしにとっては初めてADカード(取材証)をとってフルカバーした大会でしたが、天安門事件の翌年に開催され、中国は国をあげて汚名挽回をはかった大会でもありました。「全家之福」というスローガンの下、OCA(アジア・オリンピック評議会)加盟全38の国と地域を招待しようとした中国でした。当時、国交のなかったシンガポール、マレーシアと国交を結び、国境紛争をおこしていたヴェトナム、関係が悪化していたインドにも胸襟を開き、「中国台北」の名前にこだわっていた台湾にも「中華台北」という呼称を許し、大会の成功に導こうとしたのです。
ところがイラクの参加だけは、OCAの特別総会で拒否されてしまいます。その年の8月にイラクがクウェートに侵攻し、OCAのファハド・アッサバハ会長が王宮の防衛戦で戦死していたからです。開会式のリハーサルでは行進したイラク国旗は、本番では歩くことを許されませんでした。イラクは16年後、今回のドーハ大会でようやくアジア競技大会への復帰が許されました。
1994年の第12回大会は地元・広島での開催でした。わたし個人としては、仕事でトラブルが続いてあまり良い記憶のない大会でしたが、一番強く印象に残っているのが、サッカー男子日本代表の戦いぶりでした。2年前の1992年に、同じ広島で開催されたアジアカップで初優勝を成し遂げた日本。前年のサッカーワールドカップのアジア最終予選(カタールのドーハで開催された)。イラクに最後の最後に同点にされアメリカ本大会への出場権を逃していた日本は、オフト監督を解任、ブラジルからファルカン監督を招いて地元優勝を狙っていました。その年のシーズンからイタリア・セリエAのジェノアに移籍していたカズこと三浦知良を呼び戻し(セリエA開幕戦でフランコ・バレーシと激突。鼻と左目を負傷し全治1ヵ月の病み上がり)、前園真聖、岩本輝雄、森山佳郎ら若手を起用し、UAE1-1、カタール1-1、ミャンマー5-0と日本は得失点差で1次ラウンド1位で通過、準々決勝に駒を進めました。
10月11日、準々決勝の相手は宿敵・韓国。当時、2002年のワールドカップ招致合戦を戦っていただけに、招致には直接関係ないものの「どうしても負けられない戦い」としてマスコミから煽られた一戦になりました。韓国サッカー協会の鄭夢準会長も駆けつけ韓国選手を試合前から激励、多くの韓国サポーターも押し寄せるなど広島スタジアムは異様な雰囲気に包まれていました。
日本は前半39分にカズのゴールで先制したものの後半6分に同点。22分に逆転されましたが、終了間際に井原がロングシュートを決めて試合を振り出しに戻します。ところが終了寸前に、同点ゴールを決めた井原が自陣ペナルティエリア内で韓国FWと競り合ったプレーがファウルを取られPKに。微妙な判定ではありましたが、このPKを決められ2-3となりタイムアップ。地元優勝の雄図は断たれました。日本サッカー協会は10日後にファルカン監督との契約延長はしないと発表。事実上の解任でした(今回のドーハではベスト8にも進めませんでしたが、反町監督は解任されるのでしょうか)。そんな、一歩もひけないものすごい日韓戦でした。
1998年第13回大会は、タイのバンコクで開催されました。今回と同じ12月の開催でしたが、バンコクは4回目のアジア競技大会ホストシティー。運営は手慣れたものでした。開閉会式が行われたラジャマンガラスタジアムでは、人気のサッカーが実施され、陸上競技は郊外の小さなスタジアムで行われていました。そこで伊東浩司選手が男子100mで10秒フラットのアジア新記録を樹立したのを取材したのは忘れられない思い出です。最後にガッツボーズをしなければ、アジア人初の10秒の壁を破っていたかもしれません。そして高橋尚子がマラソンで衝撃的なデビューを飾ったのも、この大会でした。高速道路をスタートから一人でひた走り、気温30度を越す悪条件下、2時間21分47秒のアジア最高記録(当時世界歴代5位)の好記録で優勝してしまったのです。タイでは日本のようにマラソンのテレビ中継がなく、「どうも高橋が独走しているらしい」という情報を頼りに競技場で待っていた記憶があります。ほんとうに元気な高橋が競技場に帰ってきたのを見て、うれしいというより安心した気持ちになったことを、憶えています。
そして2002年。第14回大会は韓国の釜山で開催されました。つい数カ月前に2002年サッカーワールドカップを取材したばかりの釜山でしたが、メインスタジアムの釜山アシアド競技場に行ったのは初めて。ずいぶん立派なスタジアムでビックリしました。釜山の港町の雰囲気は大好きで、わざわざ博多からフェリーで釜山に行ってみました。本当は直接、飛行機で行った方が楽なのですが・・・。この大会、21歳以下のチームで乗り込んだサッカー男子日本代表チームが、あれよあれよという間に決勝まで進んだのは意外でした。決勝戦では、大会規定どおり23歳以下のオーバーエイジ枠4名までを使ったイラン(あのアリ・ダエイも登録していました)に最後は負けるのですが、若い日本代表は、取材する我々を楽しませてくれました。閉会式でTUBEの「ガラスのメモリー」が歌われたのが最も印象的な出来事でした。韓国で日本の「歌謡曲」が流されることがあるんだ、ってなものです。最初の1986年のソウル大会から16年。世の中の移り変わりにも驚きました。
そして今回の第15回のドーハ大会。心情的には、「ドーハには行きたし、されどドーハは遠し」です。アジア競技大会は5回連続で取材してきたので、なんとか行きたかったのですが、仕事も取材費もなく、とうとう取材を諦めてしまいました。残念です。
今回はオムニバス方式で、変わった「スポーツクラシック」になってしまいました。4年に一度のアジア競技大会、皆さんにも何か思い出はありませんか? |