| (文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 |
| 協力:SPORTS 21 |
| 秋から冬にかけ、日本ではマラソン、駅伝などの長距離走の大きな大会が週末に続けざまに行われます。それもテレビ生中継でスタートからゴールまで完全実況されるから驚きです。ほんとうに日本人のマラソン好きは、異常なほどです。間違いなく世界中でも5本の指に入るでしょう。2時間30分以上の長時間、お茶の間のテレビの前で釘付けになってレースを観るなんて、考えられませんからね。たぶん、スポーツの中でもメインの陸上競技で、世界レベルに一番近いところにあるのがマラソンです。他の種目が圧倒的に弱い(戦前の一時期、跳躍競技でハイレベルなことがありました。ハンマー投げの室伏幸治は本当に例外中の例外です)のに、マラソン日本は、常に世界のトップに近いレベルにありますから……。
われわれの世代を代表するマラソンランナーといえば、瀬古利彦をしかないでしょう。1964年の東京オリンピック銅メダルの円谷幸吉、1968年メキシコ・オリンピック銀メダルの君原健二が一線を退いた後の1970年代はスター不在が続いた日本のマラソン界、そこに早稲田の学生だった瀬古が彗星のように現れました。 瀬古利彦は1956年生まれ。四日市工業高校時代は、2年、3年と中距離ランナーとしてインターハイで800m、1500mに二連覇。将来を嘱望されたランナーでした。一浪後、早稲田大学に入学。そこで瀬古は「一卵性師弟」とも呼ばれる一人の指導者と出会います。その指導者とは中村清。1936年ベルリン・オリンピック代表で、中距離選手だった中村は、日本選手の特性では短い距離は無理、と自身の現役生活の体験から知り、瀬古にも長い距離への転向を進めます。これが「世界の瀬古」の誕生になりました。瀬古は、5000m、1万mのトラックレース、そして箱根駅伝のエースとして活躍しだします。中村の指導は、超科学的な指導のほか、道元の「正法眼蔵」や仏典、聖書から得た宗教的な教え、それに自らの戦争体験(憲兵をしていたと伝えられます)で得た独特の哲学によって裏打ちされたものでした。そこで瀬古と中村は他のランナーでは作れない独特の世界を築き上げていったのです。中村の指導を一言で表現すれば「心で走れ!」というものでした。 瀬古のマラソンデビューは鮮烈でした。1978年12月3日、福岡国際マラソン。じつは瀬古にとっては3度目のマラソンでしたが、まさに「デビュー」と呼ぶにふさわしいレースでした。連覇を狙っていたビル・ロジャース(アメリカ)、アベベ以後、初めてオリンピックのマラソンで連覇していたワルデマール・チェルピンスキー(東ドイツ)など世界の強豪に競り勝ち、2時間10分21秒の好タイムで優勝しました。早稲田のエビチャ色に「W」が付いたユニフォームを着た瀬古は、早稲田の3年生になっていました。 その後の瀬古は、一気にマラソンのスターダムを登っていきました。翌年のボストンマラソンこそ2位に終わりましたが、福岡国際で宗兄弟とデットヒートの末に優勝。文句なくモスクワ・オリンピックの代表に選ばれます。今から思えば、この頃が瀬古の絶頂期だったかもしれません。ところが、モスクワ・オリンピックで瀬古は走ることができませんでした。開催国ソ連の軍隊が、開幕の1年前にアフガニスタンに侵攻。アメリカの呼びかけに応じた日本オリンピック委員会がモスクワ・オリンピックをボイコットしてしまったのです。その頃の瀬古は、自身で「マラソンは負ける気がしなかった」と語っています。事実、翌年出場した2度目のボストン・マラソンでは世界の強豪を寄せつけず圧勝しました。「まあ、モスクワの時24歳ですからね。次で勝てばいいや、ぐらいにしか思っていませんでした。もしモスクワに出場して勝っていたら、マラソンなんかやめて25歳になったら衆議院議員選挙にでていたかも……。まあ、それは冗談としても、気分はそんなもんでした」と瀬古は後に語っています。 瀬古の言葉どおり、瀬古最強の伝説は次々に作られていきました。とくに1983年の東京国際マラソンは、瀬古自身が「もっとも思い出深いレース」と評しているように、記憶に残るレースでした。。モスクワ以降、足の故障に悩まされていた瀬古ですが、この年の東京国際は「10回走って1度あるかないかの絶好調」というレースでした。難しい東京のコースで2時間8分38秒の日本最高記録をマークして優勝したのです。そして12月の福岡国際でも4度目の優勝を飾り、1979年5回走って全勝という強さをみせたのです。文句なくロサンゼルス・オリンピックの代表に選ばれました。 ところが好事魔多しというのは、まさにこういうことなのでしょう。大事なオリンピックの年に恩師・中村が病魔に襲われてしまったのです。精神的に瀬古は微妙にバランスを崩してしまいます。それに瀬古は真夏にマラソンを走ったことがありませんでした。大会が始まっても日本でギリギリまで調整した瀬古は、神宮外苑で40km走に挑み、脱水症状になりコンディションを大きく崩しました。ロサンゼルス本番では、25km付近まで先頭グループで走っていた瀬古でしたが、ついに脱落。14位と惨敗してしまいます。オリンピックには、つくづく縁のない瀬古でした。 1985年になると瀬古は、第一人者の座を中山竹通に譲ってしまいます。マラソンのエリート街道をまっしぐらに走ってきた瀬古と苦労人の中山は正反対のキャラクターでした。中山は、ことあるごとに「瀬古さんだけには負けたくない」と豪語していました。メディアも二人の対決をおもしろがり、大いに煽ったものです。そして、1985年には、瀬古にも悲しい別れがありました。恩師の中村が釣りの最中、事故死してしまうのです。それまで二人三脚でトレーニングしてきた瀬古にとっては大きな痛手になりました。しかしその後の瀬古は1986年ロンドン、シカゴ、1987年ボストンでマラソン三連勝。2時間8分27秒という自己最高記録もマークしたのです。再び「瀬古待望論」が持ち上がってきたのです。 瀬古にとってターゲットとした3度目のオリンピック、ソウル・オリンピックが近付いてきました。そのころの日本男子マラソンのレベルは、一時の低迷期を脱し、そうとうレベルが高くなっていました。日本陸連は、「福岡、東京、びわ湖の3レースが選考レース」としながら「強化指定選手は福岡で走ること」という条件をつけたのです。ところが、福岡の1カ月前の東日本実業団駅伝で瀬古は左足首を負傷。福岡を欠場してしまったのです。この時の中山の「瀬古さんは這ってでも出てくるべきだ」と語った話は有名です。翌春のびわ湖毎日マラソンで優勝した瀬古は、オリンピック代表に選ばれましたが、記録も低調で、すっきりしない選考に終わりました。 そしてソウル本番。実際に現地で取材したわたしは、瀬古の結果としてラストランになるレースをつぶさに観ました。それは、すべての過去の恩讐を拭いさるような気持ちの良いレースでした。4位に終わった中山がレース直後に、「スタートしてから瀬古さんの全てをふっ切ったような走りっぷりを見て、『きょうは負けるかも』と一瞬思いました」と語っていましたが、恩師・中村の生まれ故郷であるソウルで、瀬古は自分のマラソン人生のキャンバスに最後の一筆を描くような爽やかさで颯爽とソウルの町を走っていました。結果はロサンゼルスの14位を上回る9位。惜しくも8位入賞は逃しましたが、「今やれることはすべてやりました。もう悔いはありません」と清々しい表情でした。 現役時代、ライバルだった宗兄弟、そして中山と同じく、瀬古は指導者の道を歩んでいます。早く彼等につづく選手が現れることを刮目して待ちたいと思います。 |
この頃のマラソン界は、いい選手がいましたネ。瀬古の全盛時は良きライバルも沢山いて大いに盛り上がりました。
投稿者 伊藤 尚 : 2006年11月22日 14:19
管理人です。冬のスポーツといえば“マラソン”というイメージがありますよね。順位なども大事でしょうが、やはり一生懸命走っている姿は感動するし、心の中で“ガンバレ”って言ってしまいます。
投稿者 管理人 : 2006年11月24日 10:49