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第十回 ドーハの悲劇を知っていますか?

(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21
 

ドイツで開かれているサッカーワールドカップ。いろいろなサッカーにまつわるエピソードが話題になっていますが、つい先日のことです。中学校でサッカー をやっている13歳の愚息が、
「お父さん、『ドーハの悲劇』って何のこと?」と質問してきました。
「君は『ドーハの悲劇』も知らないのか」と、わたしは愕然としてしまいました。

考えてみれば、今や平成生まれの人が高校生になっている時代です。わたしや団塊の世代のみなさんには、つい最近のことと思っていた「ドーハの悲劇」もすでに「クラシック」の分類に入っているのかもしれません。

「ドーハの悲劇」。誰が命名したのかもわからない言葉ですが(たぶんスポーツ新聞のタイトルを決める整理部の人の命名でしょう)、1993年10月28日にカタールのドーハ(今年の12月にアジア競技大会の開催が予定されています)で行われた1994アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選での出来事を、こう呼ぶのです。1992年生まれの愚息が知らないのも当然ですね。

前回書きましたが、1986年メキシコワールドカップ予選で「韓国に勝てばワールドカップ!」というところまで行った日本代表ですが、4年後のイタリア大会の予選では、再び1次予選敗退。「日本は永遠にワールドカップには縁がない」とも思えたのですが、日本代表初の外国人監督ハンス・マリウス・オフトを招き1992年には初のアジアカップ制覇。1993年にJリーグが創設され異様な盛り上がりの中で迎えた1994アメリカ・ワールドカップ予選でした。

「サッカー」がメジャースポーツになって初めてのワールドカップ予選。期待は膨れ上がる一方だったのです。果たせるかな日本代表は、タイ、バングラデシュ、スリランカ、アラブ首長国連邦を相手に戦った1次予選を7勝1分けで突破。カタールのドーハで集中開催された最終予選に進出したのです。

最終予選に進出してきたのはサウジアラビア、イラン、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、韓国、イラク、日本。この6か国が1回戦総当たりのラウンドロビンで戦い上位2チームがアメリカ本大会に駒を進めることになりました。

10月15日に開幕、ほぼ3日おきに5戦を戦う厳しい予選でした。初戦、強敵サウジアラビアにスコアレスドローで終わった日本、2戦目のイランに1-2で惜敗し、この時点で最下位。早くも後がない背水の陣に追い込まれます。

ここから日本の快進撃が始まります。土壇場で実力を発揮する強さを日本代表の選手たちはJリーグで学んでいたのでしょう。北朝鮮に3-0で完勝した日本は、大一番ではいつも敗れている韓国にも、カズこと三浦知良の1ゴールで快勝。最終戦を前に6チームのトップに立ちました。最後のイラクとの一戦で勝ちさえすればアメリカへの切符を手にできるところまでこぎ着けました。

対するイラクは、湾岸戦争の仕掛人サダム・フセイン大統領の「アメリカにイラク国旗をはためかせよ」との命令の下、「勝利か、さもなければ死か」という状況でした。イラクイレブンも追い込まれていたのです。日本のスターティングラインアップは、GK松永。DF堀池、柱谷、井原、勝矢。MFラモス、吉田光、森保、長谷川。FW中山、三浦知。最終戦ということで、サウジアラビアvs.イラン、韓国vs.北朝鮮も他会場で同時刻にキックオフされました。

試合は意外な展開で始まりました。開始5分、中山のセンタリングを長谷川がシュート。クロスバーに当たって跳ね返ったところを三浦知がヘディングシュート、日本が先制します。

ところが、あまりにも早く先制点を取ってしまったため、日本は守りの意識が強く出てしまいました。徐々にイラクが試合の主導権を握り出します。なんとか前半は持ちこたえて1-0、日本リードでハーフタイムを迎えます。

この後のハーフタイムが大変だったようです。興奮した日本選手たちが、おのおの勝手なことを叫びあい、オフト監督の指示などまったく聞き耳をもたないような状態であったといいます。初のワールドカップを目前にして冷静な選手はロッカールームには一人もいなかったと聞いています。

後半にはいってもイラクペースは続きます。9分、イラクが右サイドから左の前線にクロスパス、イラク得意の攻撃です。これをFWラディンが蹴り込み、試合は振り出しに戻ります。

同点引き分けではアメリカ行きの望みが消える日本。ここでようやく反撃に出ます。25分、引き気味だった指令塔のラモスが中央からスルーパス、オフサイドぎりぎりの位置、タイミングから中山が飛び出しゴンゴール。再び1点のリードを奪いました。

残り20分の攻防は、観ていて胸が閉められるような感じでした。実は、この時わたしは香川県高松のホテルのテレビで世紀の1戦を観ていました。同時期に行われていた東四国国体の取材を抜けることができず、ドーハには行けなかったのです。もう、ハラハラ、ドキドキ。日本の初出場を今か今かと待っていました。

後半45分がすぎ、ついにロスタイム。日本は時間稼ぎをして時の経過を待つことができませんでした。無理攻めからカウンターアタックを食らいGK松永がパンチでシュートを逃れコーナーキックに。このコーナーキックをイラクは予想外のショートコーナー、対応が遅れた日本は三浦知が飛び込みましたが僅かに及ばず、きれいなセンタリングがあがりました。途中交代出場のオムラムがヘディングシュート。ボールはGK松永をあざ笑うかのようにループ気味にゴール右スミに吸い込まれていきました。

日本イレブンには反撃の余力は残っていませんでした。テレビの前のわたしも呆然自失。
1分後に鳴らされたタイムアップの笛に、日本選手は全員ピッチに崩れ落ち、しばらく立ち上がることが出来ませんでした。試合は2-2の同点引き分け。最終戦でイランを4-3と破ったサウジアラビアが1位、日本と勝ち点6で並んだ韓国が得失点差で2点上回り2位。この2チームがアメリカ本大会出場を決めた瞬間でもありました。

この、まさに日本の「サドンデス」を「ドーハの悲劇」と言うんだ、我が息子よ。と解説したいところですが、この大会は総当たり戦で行われたわけで、もしサウジアラビアと引き分けではなく勝っていたり、イランに負けではなく引き分けていれば、日本は韓国に勝ち点で上回っていたわけです。また、それが出来なくとも、たくさんのチャンスを逃した北朝鮮戦で2点多く取っていれば、韓国に勝っている日本はアメリカに行けたわけです(同勝ち点、同得失点差、同得点の場合は当該対戦で勝利したチームが上位になる、というレギュレーションでした)。それが出来なかった日本は甘かったですね。

あのイラク戦のロスタイムに奪われた1失点ばかりに目がいきますが、日本のサッカー界は、マスコミ、一般の方も含めて、まだまだ総合的に勝ち抜くという術を身に付けていなかったことになります。

チームの大黒柱ラモスは試合後、インタビューに次のように語りました。
「サッカーの神様は、まだ日本にワールドカップにでるのは早いよ、といってくれたんだと思います」

日本がワールドカップ本大会の桧舞台に立つためには、それから4年の歳月が必要だったのです。



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