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第九回 ワールドカップが近づいた最初の戦い 1985年予選の日韓戦

(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸
協力:SPORTS 21
 

4年に1度のサッカーの祭典、ドイツワールドカップが開幕しました。3回連続出場の日本は、1次ラウンドでオーストラリア、クロアチア、ブラジルの順に戦っていきます。もし、4チーム中2位入れば前回の2002年大会同様ベスト16になり、決勝ラウンドに進むことになります。わたしは現地に取材に来ていますが、日本でも同時にテレビで見られますから、応援のしがいがありますね。

さて、ワールドカップは1930年に南米のウルグアイで第1回が開催されました。オリンピックの中間年に4年おきに実施されてきました。日本は「オリンピック至上主義」ということで、ワールドカップには縁がありませんでした。

1938年のフランス大会で、はじめて日本はワールドカップのアジア予選にエントリーします。1936年のベルリン・オリンピックで優勝候補のスウェーデンを破り、「ベルリンの奇跡」といわれた余勢をかってのエントリーでした。しかし、すでに戦火は拡大しておりサッカーどころではありません。残念ながら棄権ということで、アジアからエントリーしていたもう1チーム、オランダ領東インド(現インドネシア)が予選なしで本大会に出場しました。ちなみに、オランダ領東インドは、1回戦でハンガリーに0-6で敗れています。

第2次世界大戦のためワールドカップは2回中止されました。日本が戦後、初めてエントリーしたのが1954年のスイス大会アジア予選。残念ながら韓国に1分け1敗。長沼健・現JFA名誉会長が初ゴールをあげましたが、本大会には進めませんでいた。

日本は1964年の東京オリンピックでベスト8、1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダル獲得と世界のトップレベルに近づきましたが、ワールドカップには縁がありませんでした。当時の日本サッカーはアマチュア選手しか存在しませんでしたから、プロフェッショナル選手が参加する「ワールドカップ」は土俵が違うと考えられていたのです。

ようやくワールドカップ出場まで、あと一歩に近づいたのが1986年のメキシコ・ワールドカップでした。前年の1985年にアジア予選が開催され、この1戦(ホーム&アウェーで実施されたので2試合)に勝てば世界の檜舞台に立てる、というところまでいったのです。ここで日本の前に立ちはだかったのが、宿敵・韓国でした。

10月26日、快晴の東京・国立競技場で行われた第1戦。メキシコ・オリンピック以来低迷していた日本代表は、森孝慈監督の下、テクニシャンがそろいました。この試合のスターティングラインアップは、GK松井。DF松木、加藤久、石神、都並。MF西村、宮内、木村和。FW水沼、戸塚、原。現在、指導者やテレビ解説者として活躍している面々です。

「今回は勝てるかもしれない」。国立競技場は期待に胸膨らませた6万2000のファンで埋まりました。もちろん韓国も在日の方を中心に多くの応援の人々がかけつけていました。まだまだ日韓関係は2002年のワールドカップ時のようにソフトな関係になっていませんでした。その記者席に若き日の白髭も座っていました。

試合は、予想に反して日本有利に展開しました。韓国はアウェーということもありディフェンシブな戦いぶり。しかし、これは韓国の金正男監督が周到に考えた作戦だったのです。テクニックはあるものの経験の浅い日本イレブンは、ボールポゼッションが高くなることをいいことに、守備を疎かにして攻撃一辺倒になってしまいました。

前半30分、DF石神のクリアーミス(当時の国立競技場はグラウンド整備が悪くクリアーしようとしたボールがイレギュラーバウンドしたのです)をオーバーラップしていたDF鄭竜煥がすかさずシュート、先制しました。

この1失点で日本代表は1点のビハインドをとりかえすべく、ますます攻勢に出ます。ところが、これは韓国の思う壷でした。前半41分、システマティックで素早いカウンターアタック。右サイドから攻撃をかけ途中交代出場の李泰*(日カンムリに下に天)が正面からシュート、2点目をあげました。日本のDFラインが押し上げたすきを見事につかれたのです。

結果的には、これが決勝点になりました。日本代表にとっては、悔やんでも悔やみきれない場面でした。すでに韓国のサッカーはプロ化されており、日本選手より一枚も二枚も上を行っていたのです。

しかし、その3分後にゴール正面約23mのフリーキックを木村和がズバッと決めて勝負の興味を後半に持ち越しました。「伝説のフリーキック」として今でも語りぐさになっているゴールです。

後半に入っても日本の攻勢は続きました。とくに後半18分、コーナーキックからチャンスをつかみニアサイドの加藤久がバックヘッド、シュートはクロスバーに跳ね返りゴールを割りませんでした。これが同点に追いつく唯一のチャンスであったような記憶があります。

終盤、日本は木村和をジョージ与那城に交代します。その後、ラモス瑠偉、三都主アレサンドロ等と続いていくブラジル系帰化選手の一人ですが、時間があまりにも少なかったため薬石効ありませんでした。

試合は韓国2-1リードのまま終了。当時の大会規定で、韓国ソウルで開催される第2戦では、日本が韓国に2点差以上点差をつけて勝たなくてはメキシコ本大会の出場は不可能になりました。

果たせるかな、8日後の11月3日、ソウル・オリンピック競技場で行われた第2戦、日本は0-1で敗れ雄図を断たれました。韓国は1954年以来32年ぶり2回目のワールドカップ本大会出場を決め、日本より一歩早く世界への階段をあがっていったのです。

この敗戦は、日本サッカーの歴史にとって大きなエポックになりました。
「日本も早くプロ化しないと韓国追いつけない」
絶望的な状況下にあった日本サッカー界がプロ化に進めるきっかけになったのです。

現在の日本代表のベースは、6回前の1986年メキシコ・ワールドカップの予選にあったといっても過言ではありません。当時のメンバーの多くが、指導者として、コメンテーターとして、現在の日本サッカー界の原動力になっているのです。



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