| (文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 |
| 協力:SPORTS 21 |
今年も4月29日に東京・九段の日本武道館で柔道の全日本選手権が開催されます。柔道日本一を決める大一番の会場になる「武道の殿堂」日本武道館 は、1964年に東京で開かれた東京オリンピックのために造られました。 東京オリンピックから正式競技になった日本古来の柔術をルーツとする柔道。近代柔道は1882年に嘉納治五郎によってルールが定められたといいます。日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に選ばれて、日本のオリンピック・ムーブメントに多大な功績を残している嘉納のことについて語るのは次の機会に譲ることにして、今回は日本武道館で繰り広げられた東京オリンピックの柔道について書こうかと思います。 東京オリンピックの時、小学校4年生だった白髭少年の記憶に残っているのは、まずは女子バレーの金メダル。「東洋の魔女」が大きなソ連女子を破ったのは痛快な記憶です。それと男子体操の華麗な活躍。まさに戦後日本を象徴するような技の開発、そして一つひとつの技の完成度を高める技術。日本人の精巧さを具現する究極の演技でした。 それと「大和魂」を結実させたようなレスリング陣、ウエイトリフティングの三宅義信、ボクシングの桜井孝雄の活躍。これも胸を熱くしました。しかし、何と言っても日本人の期待は柔道でした。柔道の母国・日本としては4種目(現在は男子7種目、女子7種目の計14種目が実施されています)完全制覇が絶対の条件。しかし、そこに大きく立ちはだかろうとしたのがオランダのアントン・ヘーシンクでした。 ヘーシンクはオランダだけの稽古に飽き足らず、来日して数年間、講道館や天理大学で修行し、本家・日本の柔道 東京オリンピックが開催される3年前、ヘーシンクは1961年の世界選手権(当時は階級制がなく無差別級1種目だけ)で優勝しており、ヨーロッパでは敵 なし。日本の金メダル完全制覇を阻むのはヘーシンクただ一人だけだろうと言われていました。 果たせるかな、ヘーシンクは東京オリンピックで無差別級にエントリー(80kg以上の重量級にもエントリー可能)してきました。ここで日本選手団は頭を悩ませます。日本には猪熊功と神永昭夫と甲乙つけがたい重量級選手が2人いたのです。どちらを無差別級に出場させてヘーシンクと対決させるか? これが大問題でした。結局、天理大学でヘーシンクを指導した経験を持つ松本安市監督は、「重量級には猪熊を、神永は無差別級に出場させる」と決定しました。神永の方がヘーシンクに勝てる可能性が高い、という判断だったのですが、それは、「申し訳ないが、ヘーシンクには猪熊でも神永でも勝てない。神永に捨て石になってもらうしかない」という苦渋の選択でもあったのです。 10月20日、柔道は軽いクラスから開始されました。軽量級(~68kg)は中谷雄英が、中量級(68kg~80kg)は岡野功が、重量級(80kg~)は猪熊功が他国の選手を寄せつけず優勝しました。そして柔道最終日の10月23日に最後の無差別級が実施されました。 東京オリンピックの無差別級には9カ国から9人しか参加していません。現在では決勝戦まで無敗でいかないと金メダル、銀メダルは取れないシステムになっていますが、東京オリンピックの時は、まず3人で1回総当たりの予選リーグを行い、そこで1位の選手は準決勝へストレートイン。2位の選手は敗者復活リーグを行い1位の選手だけば準決勝に進むシステムでした。そして、なんとヘーシンクと神永が同じ予選リーグに入り、戦っているのです。 予選リーグは6分間で行われました。神永とヘーシンクの試合は6分間フルで戦ったものの際立った差がなく、旗判定僅差でヘーシンクが勝ちました。ヘーシンクはこのまま準決勝に回り休養を十分に取ることができました。 一方の神永は敗者復活リーグで2試合余計に試合をしなければなりませんでした。もし、組み分け抽選でヘーシンクと違う組に入っていれば、当然準決勝にストレートインできていたはずでした。じつは神永は足に故障をかかえており、体調万全ではなかったといいます。それを隠しての出場でした。2試合も多く戦うのは、たいへんなハンディであったと思います。 準決勝、ヘーシンクはオーストリアのテオドール・ボロノフスキスを僅か12秒で支えつり込み足で一本勝ち。一方の神永は4分10秒にドイツのクラウス・グラーンを体落としで一本勝ち。予想通り決勝戦で対決することになりました。 さて、いよいよ決勝戦が始まります。日本武道館は真の世界一決定戦を見守る1万5000人の大観衆で埋まりました。日系アメリカ人、ケニス・カナメ・クニブキ主審の「ハジメ」の声が響きわたります。 なかなか二人とも組みにいきません。2分すぎヘーシンクが「サア、コイ」と声をあげ、両手をあげて神永の出方を待ちます。現在のルールでしたら両者に「指導」「注意」「警告」がでていたかもしれません。神永は冷静で、ヘーシンクの誘いには応じませんでした。 5分すぎ、神永一瞬の隙をヘーシンクが逃さず支えつりこみ足という技をかけます。神永は、たまらず横に倒れます。その瞬間、ヘーシンクは押さえ込みに入ります。神永は必死で逃げました。7分、今度は神永が左体落としでヘーシンクの体を傾けます。必死に耐えるヘーシンク、場内からは深いため息がもれました。 その後、8分半ばすぎ、運命の時が来ました。神永が技をかけにヘーシンクのふところに入ると、ヘーシンクは待っていたとばかりに寝技にさそい、左けさがために神永を押さえつけたのです。岩のようなヘーシンクの押さえ込みに179cm、102kgの神永も逃げることはできませんでした。必死に跳ねあげようとしましたが動きません。9分22秒、公式計時を受け持ったセイコーの時計のブザーが鳴り、クニブキ主審が「ソコマデ」と宣しました。 その時です。本家のニッポンを破ったことに感動したオランダの役員が、畳みにあがってヘーシンクに抱きつこうとしたのです。その時、ヘーシンクは畳みに上がろうとした同僚を制しました。「まだ、『終わり』の挨拶が終わっていない。祝福はそのあとにしてくれ」と言わんとばかりの形相でした。 じつは、3年前の世界選手権でヘーシンクが優勝した時、勝負が決まった直後に役員が畳上に乱入、問題になっていたのです。その後、日本で修行したヘーシンクは、「礼にはじまり礼に終わる」という武道精神を学びました。そして東京オリンピックの際には、世界選手権の失敗は繰り返さなかったのです。まさに 「柔道」が「JUDO」になった瞬間でした。 その後、ヘーシンクは指導者の道を歩みIOC委員になっています。わたしは1988年の国際オリンピック・アカデミーの講師でギリシャにやってきていたヘーシンクに会ったことがありますが、そのときも懐かしそうに日本代表のわたしに接してくれました。そして神永との対決の事を詳しく語ってくれました。 国際派として世界柔道連盟やIOCでの活躍が期待された神永は、1993年病に倒れ故人になりました。しかし、あのヘーシンクとの死闘は、柔道が続く限り語りつがれることでしょう。
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