Japan Senior Online http://j-senioronline.com/jsomt/ ja 2006-09-07T10:27:09+09:00 シニアコラム空エントリ http://j-senioronline.com/jsomt/seniors_column/000047.html シニアコラム

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seniors_column Melody 2006-09-07T10:27:09+09:00
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tokushu Melody 2006-09-07T10:24:03+09:00
第十四回 世界バスケットボール選手権大会を取材して 谷口正朋さんの思い出 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000044.html   (文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

8月19日から広島、浜松、仙台、札幌の4会場で第15回世界バスケットボール選手権が開催されています。8月26日から9月3日までは、埼玉のさいたまスーパーアリーナで1次ラウンドを勝ち抜いたベスト16によるファイナルラウンドです。

広島で1次ラウンドを戦った日本代表は、パナマに78-61で勝ったものの、ドイツ、アンゴラ、ニュージーランド、スペインに敗れ1勝4敗、グループ B5位で終わり、残念ながらファイナルラウンドに駒を進めることができませんでした。

バスケットボールという競技は、身長や身体能力などが直接プレーに影響するところが大きなスポーツです。アイスホッケーやラグビーなどと同じように、身体接触があることなど日本人にとって最も苦手とするタイプのスポーツなのかもしれません。しかし、そこを工夫して、なんとか世界の上位を狙うのが日本スポーツ界永遠の命題です。

バスケットボールは、学校体育では必須競技ですし、どこの学校でもクラブ活動で盛んに行われています。それだけに親しみのある競技ですが、世界との差は歴然です。男子はアジア予選を勝ち抜いてオリンピック本大会に出場したのは1976年のモントリオール大会が最後。アジアでは中国、韓国などの後塵を拝してなかなか世界の桧舞台に立てないでいるのが現状です。

そのため、マスコミから注目を浴びることも少なく、競技自体の面白さや実際にプレーしている競技人口の多さに比べ、マイナースポーツ化しつつあるのが現状です。

しかし、かって日本女子は1976年のモントリオール・オリンピックで5位に、1996年のアトランタ・オリンピックで7位に入賞。1975年の世界選手権では2位に入ったことがあります。高さには、速さと組織力で対抗できることの証明でした。

男子も1956年のメルボルン大会から1976年のモントリオール大会まで6回のオリンピック中5回出場と、世界レベルにあった時期もありました。そこで沼田宏文、北原憲彦など大型プレーヤに混じって活躍したのが、身長1m86の谷口正朋さんでした。

谷口さんは中大杉並高校入学後にバスケットボールをはじめ、中大、日本鋼管で活躍したプレーヤーでした。高校3年の時、日本代表に選ばれ海外遠征は54回。長きにわたって日本チームを牽引しました。主将として出場した1972年ミュンヘン・オリンピックでは14位という成績に終わったものの得点王に輝いています。まだ「3点シュート」というルールができる前のことです。

その谷口さんの個人練習を見たことがあります。ハウツーものの撮影に行ったついでのことだったと思います。川崎にある日本鋼管の体育館で、谷口さんは1人で黙々とリングに向かってボールを投げていました。

練習の前に「何本くらいシュートするのですか」と聞いたところ、「だいたい1日で1000本を目標にしています」という答え。「お1人でするのですか。サポートの方は?」と尋ねると、「もちろん1人ですよ。球拾いなんて必要ないですよ」。そりゃ、大変だと思ったのですが、練習を見て納得しました。

谷口さんが放ったシュートは、きれいな放物線を描いてリングにも触れずノータッチで床に落ちます。そうするとドライブのかかったボールは、投げた谷口さんの方向に自然にバウンドしながら戻ってくるのです。

そうしたボールが1000本中980本くらい。結局、リングに当たったりバックボードに当たって、あさっての方向に飛んだのは20本くらい。本当にシュートの正確さには舌を巻きました。

現在の日本人プレーヤーで、毎日1000本シュートを練習している人はいるのでしょうか。そして980本をゴールに決めるプレーヤー。現在のように3点ルールがあればロングシュートが得意だった谷口さんのことです、2倍くらいの得点はあげていたでしょう。

谷口さんはサウスポーシューターとして有名でしたが、じつは右利きだったそうです。幼稚園のころ右手に火傷をおい長い間右腕に包帯を巻いていて、左手で生活をするようになったとのことです。火傷が完治してからは、すっかり左利きになってしまい、今度は左手に包帯を巻いて矯正し鉛筆や箸は右手で持つようなりましたが、ボールを投げたりすることは左利きのままだったそうです。そういえば、野球の王貞治さんも右利きを左投げ左打ちにしたという話を聞いたことがあります。

谷口さんは引退後、日本バスケットボール協会の専務理事として、JBL指導者研修、JBLバスケットボールドリームプロジェクトなどで後進の指導につくしています。

谷口さんのような天才プレーヤーが再び登場すれば、低迷する日本バスケットボール界の起爆剤になるでしょう。すでにbjリーグというプロバスケットボールがスタートしていますが、来年度にはいよいよ日本バスケットボール協会主導のプロリーグが立ち上がるようです。

五十嵐圭や双子の竹内公輔、竹内譲次ら新しい選手も登場してきていますが、谷口さんを凌ぐ得点力ある選手は登場してきていません。

せっかく日本で世界選手権を開催しているのに、今一つ盛り上がりに欠けたのは残念でした。やはり、ある程度(ベスト16入りくらい)の開催国の活躍が、こうしたイベントでは必要不可欠です。NBA挑戦中の田臥勇太を含め、谷口さんを越える日本選手が一日でも早く出現するよう願うばかりです。

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sports_classic Melody 2006-09-07T07:49:13+09:00
第五回 「分をわきまえろ。」 http://j-senioronline.com/jsomt/yonosuke/000043.html
(文) 海風亭世の介  

おいらは亀田を支持するね。世間は亀田にどうしろって言ってんだろう。奴は試合の判定に従ってチャンピオンの座についた。ただそれだけだろ。判定がインチキだというなら、それは亀田親子とは別の問題だ。疑惑のしかるべき根拠と証拠をもって、しかるべき手段で暴くしかない。おいらは行儀の悪い奴は嫌いだ。だから亀田も嫌いなんだけど、なにせ人前で気絶するまで殴り合ってそれで銭をもらおうっていう興行だ。そんな狂気の世界の住人に、世間的な行儀良さとか品行を求めるほうが所詮無理な話だろ。政治家に清廉さを求めたり、芸人にモラルを求めたりするのと似てる。くだらねぇな。偽善はやめて、亀田のあの大仰なパフォーマンスとやらをビール片手に、愉しんでりゃいいじゃねぇか。

さて今回もぶつくさ言うぞ、なにせ暑いからな。ま、程ほどに聞き流してくれ。最近の世間から“分”という概念が消えようとしているみたいでどうも気にくわねぇ。分とは文字通り“分け隔て”だ。おのれの領域と言い換えてもいい。男と女、大人と子供、金持ちと貧乏人、玄人と素人…正妻と妾なんてぇのもあるな。人それぞれがその出自と実力と目の前の現実を謙虚に受け止め、分を守り、分をわきまえて暮らす。そこに社会の調和と慎み深さが生まれるんだと思うんだが…。土俵の上に上がろうとするどっかの女知事。相撲は大昔からそういうことでやってきたんだから、いまさらぐちゃぐちゃ言うなよ。

男女差別なんかとは別の話だろうが。分をわきまえろよ。某有名フレンチレストランでワインぐるぐる回して口のなかでぐちゅぐちゅやってる若造。坊や、周りを見てごらん。ここはお国に所得税たっぷり払ってる人がくる所なの。自分で稼いだ金で気軽に通える店、それが分なの。しょぼい建売住宅の狭いガレージにきつきつにジャガー置いてるオヤジ。家の格よりクルマの格がうんと上だと、かえって貧乏臭いよ。フランクミューラー腕にはめて、カップヌードルすすってるみたいだよ。おまえさんの住んでる家。それがおまえさんの分なんだよ。それをわきまえろよ。

パソコンの前で瞳孔開いて株式市況に釘付けの保谷市在住の38歳の主婦。個人投資家なんていう最近の流行に見事にそそのかされて…。株とか先物取引とかね、玄人だけに許された怖~い世界なの。その内泣きを見るよ、あなたは素人なんだから、堅気なんだから。分を守りなさいよ。とまぁ、例を挙げればきりがない。何でも自由、何でも平等、戦後民主主義が振りまいた大いなる幻想。

その中でみんな分を忘れ何でも欲しがり、およそ足るということを知らない。
おいらが子供の頃、他人の持ってる物を欲しがると“見たもの乞食”といって親に怒られたもんだけど、その言いようで行けば日本中が見たもの乞食になってるな。あぁ~あ、やだやだ。なんだか今日はぶつくさ度高かったな。次回はまた色っぽい話でもしようかな。



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yonosuke Melody 2006-09-06T18:24:17+09:00
第四回 「ダメとイヤとの間で…。」 http://j-senioronline.com/jsomt/yonosuke/000042.html
(文) 海風亭世の介  

いやぁ今年の天気はなんかおかしいぞ。海風亭の前の相模湾も5月の連休頃から妙に風の強い日が多くて、気持ちのいい五月晴れの日なんてほとんどなかったし。やっぱり地球温暖化の影響かな。暖かくなっていいじゃねぇか、温暖化。東京がハワイみたくなるんだろ、一年中水着のねぇちゃんが寝そべってるんだろ、なんて冗談言ってたけど事はそうお気楽じゃなさそうだ。これから大変だろう地球は…。食料も石油もなくなるし、砂漠化は進むし、ハリケーンはやたらでかくなるし。いくら科学や技術が進歩しても人間は地球のことなんかまだほとんど解ってねぇんだろうな。

イメージ解っていないといやぁ、今も昔も俺たち男にとってどうにも解らない大きな謎が、女心だ。(本題への入り方が上手くなったな)気があるくせに、気のないそぶり。こっちへ来たいのに、追えば逃げる。YESなのにNO、NOなのにYES。ローマの哲学者も、ノーベル賞の詩人も、IQ200の科学者も、こればっかりは17歳の高校生とおんなじだ。そこでこの世の介が長年にわたるケーススタディから導き出したある法則を特別に教えて進ぜよう。

それは一言、女のNO!には2種類あるということだ。そのひとつは“ダメ!”。このNOはおおいに望みありだ。今日はダメ!…“寝坊してあわててパンティはいて家を飛び出したけど、さっきトイレで見たらほころびて小さな穴が開いてんの。この人ったらこんな日に限って熱く迫ってきたりして、ったく間抜けなんだからぁ。”とまあ、こっちのせいにされたりして…。ここじゃダメ!…“あらやだ私ともあろう女をラブホに誘うつもり?冗談じゃないわよ、安く上げようとして。パークハイアットとまでいわないけど、せめて山の上ホテルくらいとって欲しいもんよね、いい女にはコストがかかるのよ”と、身の程知らずの我儘だったりする。こんなんじゃダメ!…“信じられない、決めのデートに居酒屋?それじゃぁ首立てに振れないでしょ。女にも面子があるのよ、顔立ててよ!”と何だか脅かされてるような気にもなってくる。ともあれ、話は簡単でダメの理由はたいてい彼女たちの側にあって、それをひとつひとつ取り除いてやればいいだけの話だ。

ところが“イヤ!”となるとかなり望み薄だ。背景はそんなに多くない。“あなたじゃイヤ!”ほとんどがこれだ。残念!原因はこっちにあるんだ。すごすご退散するしかないんだが、よぉく注意して欲しいのは“イヤァーン”と間違えないことだ。これ天国と地獄くらい差があるからな。


ま、これが一応おいらが導き出した法則だけど、外れたって恨みっこ無しだよ。
なんせやつら相模湾の海みたいに底知れない存在だからな。時化だ、凪だと騒いでもそんなの所詮表層のこと。男なんてその波間に漂う小船みてぇなもんだから…。



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yonosuke Melody 2006-09-06T18:22:30+09:00
第三回 「色気が足りない」 http://j-senioronline.com/jsomt/yonosuke/000041.html
(文) 海風亭世の介  

しかし民主党の永田の野郎も往生際の悪いやつだったな。だいたい物事の終わりにそいつの本性が出るな。会社の辞め方、女との別れ方、離婚の仕方。辛いからこそ、そこでどんだけやせ我慢ができるかってことだ。その最たるものは死に方だろうな。おいらは棺桶の中で閉じたまぶたの上からマジックで目を描いてもらおうと思ってるんだ、ベティさんみたいな。鼻毛も描いて、前歯も1~2本黒く塗りつぶしてな。司会者が“さあ、故人に最後のお別れを”とか言って、泣きながら覗き込んだ友人や昔の女たちが思わず吹き出すっていう寸法さ。
あいつは死ぬ間際まで大馬鹿者だったね、と思われたら遊び人としては本望だ。

イメージさ、本題だ。と言っても大したこたぁないけどね。先達てちょいとヨットで熱海沖の初島まで遊びに行ったんだ。見かけはたいそう立派なホテルがあってゴージャスなんだけど、色気がないんだな。レストランはみんな9時ころ終わっちまうし、朝飯は学食みたいだし、スタッフもなんかマニュアルっぽいんだ。リゾートホテルって気持ちをぐらっとさせるところだろ。あれじゃぁ都会で遊びなれて、少々物事を見てきた大人にはつまんねぇだろうな。日本旅館だって着いた早々朝飯は何時にするかだの、門限があるから早く帰れだの、うるさいったらありゃしねぇ。気の利いたワイン一本もおいてないくせに。まあ、ホテルや宿を責めるのは酷なんだが、問題は六本木ヒルズや最近の丸の内だ。見かけは立派だけどなんか硬くて、乾いてて、冷たいんだな。豪華なだけで空気に色気がないんだ。どこかの大きな資本が再開発とかいう名目で四角四面で表面だけはピカピカのたいそうな入れ物つくって、そこに有名ブランドが入居する。というか家賃が高いもんだから有名ブランドしか入れねぇ。レストランなんかその家賃から逆算するから客単価上げるために料理に無理やり余計な手を加える。そこに小金を持った小利口で小奇麗な人間ばかりが集まってくる。システムと効率と経済だけがすべてを支配して、風情も情緒も色気もあったもんじゃねぇ。盛り場ってぇのは清濁併せ呑んだ人の営みがうごめく場所だ。柔らかくて、濡れてて、温かい場所だ。楽しいこと、悪いこと、きれいなこと、醜いことがない交ぜになって、そこに色気が生まれるんだ。そうかと思えば電車の中吊りには年端もいかねぇ若い娘が半裸で寝そべった写真が溢れてる。大人の色気が街からなくなって、幼稚な猥褻が大手を振ってる。まあ誰が悪いかといえば、俺たち大人が悪いんだけどな。

何だか今回は愚痴っぽくなったな。まあ“ぶつくさ日記”だから勘弁してくれ。さあ今夜は野郎の友達とこの先の浜で焚き火だ。長崎からいいからすみ送ってきたんで、それつまみにウィスキーかな。色気も何もないけど、それも気楽でいいんだな。(おわり)



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yonosuke Melody 2006-09-06T18:19:44+09:00
第二回 「陸釣りたぁ、よく言ったもんだ」 http://j-senioronline.com/jsomt/yonosuke/000040.html
(文) 海風亭世の介  

それにしても可愛いぞ、えびちゃん。可愛いにもほどがあるよな。しかしまぁ、CanCamやJJに出てくる女の子たちのおしゃれに対する執念てぇのはすごいね。ヘアも、洋服も、メイクも、小物も、完璧。男にもてるためなら、そんなに頑張らなくても、と思うけど、見てるとあれは女同士で張り合ってるんだな。だから際限がないんだ。まったく女の業と欲は深いからな。昔から女を社会的に封じ込めようとした宗教や権力は多いけど、“女を野放しにしておくと大変だ”って気づいてた知恵者がいたんじゃねーか。今は野放しだもんな。おっと、こんなこと田嶋陽子なんかに聞かれた日にゃぁ、何言われるかわかんねぇな。おっかねぇからここらでやめとこ。

イメージさて、えびちゃんといえば恋だ。(相変わらず強引だな)おいらもそこそこ場数踏んできたけど、思えば思うほど色恋は釣りに似てるな。銀座や六本木で金目のものばら撒いて女の気を引こうとするのは、さしずめこませ釣りだ。物量作戦っていう了見が気に入らねぇし、第一海が汚れるんだ。ま、獲物のほうも心得たもんで、こませだけ腹いっぱい食ってバイバイなんてぇのも多い。いずれにせよ下種なやり口だ。バーテンや美容師が客の女と仲良くなるのは、定置網だ。黙ってても獲物が飛び込んでくるんだから羨ましいような話だけど、ただ獲れりゃいいってもんじゃない。しかけの工夫や、糸の出し入れ、棚の様子を想像したりという釣りの醍醐味には欠けるんじゃないのかな。色恋も駆け引きと会話だからな。他にも野郎とつるんで同じ獲物狙ってて糸からまって大騒ぎになって逃げられたり、合わせるのが早すぎてばれたり、逆に餌を針ごとばっくり飲み込まれてにっちもさっちもいかなくなったり、いやぁ書いてて身につまされるな。ま、早い話が色恋も釣りも技術なんだ。よく若い連中に言って聞かせるのは“お前がもてないのはお前に魅力がないからじゃねぇんだ。お前のやり方が下手糞なんだ”ってね。どんなに男前で性格が良くてもそれだけじゃ女はついてこねぇ。相手の裏をかいたり、じらしたり、ちょっと意地悪したり、時には芝居うったりが肝心だ。真心なんて忘れちまいな。女ってぇのは陳腐な真実より甘い嘘のほうがお好みなのさ。困ったもんだ。でもそこが可愛いところだけどな。

このサイトの読者なんかも、ばりばりの現役というわけにもいかなくて、かといって老け込む年でもないし、微妙なお年頃なんだろな。もじもじしてんだろうな。でもナポリなんか行くと60くらいの親父が派手なジャケット着てコロンぷんぷんさせて花束かなんかかかえていそいそと歩いてるぞ。ま、イタリア男になれとはいわないけど、色恋をあきらめたり忘れたりした時から、老年が始まると思って間違いない。みんなまだ早いだろ。

さ、おいらはこれからちょっと先の諸磯海岸まで行って釣りだ。糸も竿もちょいと細めのやつであいなめかなんか狙おうかな。なに釣れても釣れなくてもいいんだ。ぷるっとくるあの感触がいいのさ。当人がいやだと言やぁ無理にとはいわねぇ、そのまま逃がしてやるさ。色恋みたいなもんだからな、釣りって。 (おわり)



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yonosuke Melody 2006-09-06T18:17:22+09:00
第十三回 ヤングアスリートの登竜門・全国高校総体 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000039.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

8月1日から25日まで、大阪を中心とする近畿2府4県で全国高校総合体育大会が開催されています。高校時代に部活でスポーツをやっていらっしゃった方の中には、「インターハイ」に参加された方も多いと思います。運の良い方は県大会、地域大会、そして中には全国大会まで進まれた方もいらっしゃるでしょう。

ラグビー部に所属していたわたしは、高校総体には参加できませんでした。ラグビー、駅伝、スケート、スキーなどウインタースポーツは、独立した大会が冬に行われるからです。今年の夏の競技は、カヌーだけ山梨県でしたが、その他の28競技は近畿の6府県での開催です。

昭和38年(1963年)、それまで競技ごと全国各地でバラバラに行われていた全国高校選手権が、まとまって同地域で行われる総合体育大会に生まれ変わりました。それによって国民体育大会と並ぶ日本最大のスポーツイベントが誕生しました。総合開会式も実施されることになり、ふだん、あまり交流のない他競技の愛好者とも触れあう機会ができたのですが、これが総合体育大会の良いところです。

それ以降、日本を「東(北海道・東北・関東)」「中(北信越・東海・近畿)」「西(中国・四国・九州)」の3ブロックに分けて、原則的には 「東」「中」「西」の順で開催されています。今年は「中」の近畿、来年は「西」の佐賀・福岡、再来年は「東」の埼玉を中心に開催されることが決まっています。

わたしは、30年前から発行されている『高校サッカー年鑑』(全国高体連サッカー部編、講談社刊)の編集に関わっている関係で、28年前の福島総体(昭和53年度)から取材しています。途中、バルセロナとアトランタの2度のオリンピックの年には開催時期が重なっていたため2回お休みしていますが、今年まで27回、真夏の若人のスポーツの祭典を見守ってきました。

現在、日本で活躍しているオリンピアンのほとんどが、インターハイに出場していると思います。まさに高校総体は、日本スポーツの登竜門といっても過言ではありません。

わたしも昔は、専門のサッカーの他にも、時間がありさえすれば陸上競技、水泳、バスケットボール、バレーボール、バドミントン、ボクシングなども取材に出かけました。なにしろ総合体育大会。サッカー会場のお隣の体育館でいろいろなスポーツをやっていることもあります。スポーツ好きにはこたえられない取材三昧がができるというわけです。

ちょっと、ここのところ年をとって、体力的にサッカーだけを取材するのがやっと、という状態になってしまいました。やはり若さに任せて後先考えないで取材していた頃がなつかしいく思い出されます。

高校総体、とくに中心に取材してきたサッカー競技最大の思い出は、15年前の平成3年度の静岡総体です。サッカー競技の場合、参加校の多い北海道、東京、埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪と開催県は2校出場することが許されます。静岡はサッカーが盛んな土地柄。史上初の同県代表の決勝対決が期待されたのです。

総合開会式で、参加選手を代表して選手宣誓をしたのは、静岡第1代表・清水東高校主将の斉藤俊秀くん。そう、元日本代表、現在でも清水エスパルスで活躍している斉藤選手。地元・静岡のサッカーに対する期待の高さが窺えました。

かくして静岡第1代表・清水東は、1回戦不戦勝、2回戦は境に4‐0、3回戦を田辺に7‐0、準々決勝は帝京に4‐1、準決勝は市立船橋を延長戦の末2‐1で決勝戦に進出しました。

静岡第2代表は伊東輝悦(元日本代表、清水エスパルス)、服部年宏(元日本代表、ジュビロ磐田)を擁する東海大一(現・東海大翔洋)。東海大一は1回戦こそ水口に1‐1の引き分けでPK方式4‐3の結果、勝者扱いとなって、2回戦は5‐0で大社を破り一気に調子に乗りました。3回戦は武南を3‐1で、準々決勝は国見に3‐0、準決勝は四日市中央工に2‐1で競り勝ち決勝に駒を進めました。

この年の四日市中央工には「レフティーモンスター」と呼ばれた小倉隆史がいました。小倉は後年、足の負傷に悩まされ大成しませんでしたが、当時は高校生レベルを越える選手。カミソリのようなプレーというより、大ナタでDF陣を切り裂いて行くようなプレーぶりは、希有な選手でした。最近はTBS系のサッカー番組で解説などしていますが、わたしが30年間高校サッカーを見てきて5本の指に入るプレーヤーだと思います。

決勝対決は、高校総体サッカー史上初(それ以降41回を数える総体サッカーでも唯一)の同県勢同士で、1991年8月8日、日本平球技場でおこなわれました。

前半17分、東海大一はDF杉山のクロスをFW岩下がヘディングシュートで先制。しかし清水東も前半終了直前33分(高校総体サッカーは35分ハーフで実施)にFW田島のセンタリングをFW斉藤賢二がシュート、試合は振り出しに戻りました。

試合途中で肩を負傷した清水東の斉藤俊秀主将は、1970年ワールドカップの西ドイツのベッケンバウアーのように包帯で腕をつって奮闘。1‐1のまま試合は10分ハーフの延長に。

そして、そのまま両校優勝(当時の決勝戦ではPK方式は行わず両チーム優勝になった)かと思われた延長後半8分、こぼれ球を清水東のFW田島がクリーンシュート、2‐1として試合を決めました。

まさに「真夏の死闘」。清水東は4度目の総体制覇を成し遂げました。名将・勝沢要先生から監督の座を引き継いだ若き膳亀信行監督は、初の全国制覇を地元で成し遂げました。総体開催県の優勝も、総体サッカー41回中に昭和50年度の山梨・韮崎、平成3年度の静岡・清水東、そして平成15年度の長崎・国見の3回しかありません。まさに快挙といもいえるもので、27回取材した高校総体の中でも印象に残る大会でした。

今年度の大阪、サッカー競技では広島観音が優勝しました。これまた、埼玉、静岡とともに「サッカー御三家」といわれる広島としては7年ぶり2度目の快挙です。

来年のサッカー競技は、佐賀県だけではグラウンド施設が整わず、福岡県と共催されることになっています。1つの競技が2つの都道府県にまたがって行われるのは極めて異例のこと。(わたしが知る限り3年前の長崎総体時、水泳の飛び込みだけ佐賀で実施したことが唯一の例)。この大会もぜひ現地で取材したいと願っています。

いずれにせよ、真夏の太陽の下、若人が懸命にプレーするのを取材することは楽しいことです。この楽しみ、まだまだ手放したくはないと思っています。



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sports_classic Melody 2006-09-06T18:07:49+09:00
第十二回 高校野球の夏到来! 忘れられない太田幸司27イニングの激投 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000038.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

今年も高校野球の夏がやってきました。甲子園で行われる全国大会は8月6日に開幕しますが、その予選にあたる各都道府県大会は、沖縄県大会を皮切りに7月には全国各地で熱戦を展開しています。

最初は自らの母校の成績を気にしながら、母校が敗れた後は、己の縁りのある学校を応援し、最後は自分の出身都道府県の代表校を応援するという「ホーム」最優先、郷土愛を基盤にした「思い込み」の強い観戦に繋がっていきます。それが高校野球の根強い人気の一因だと思います。

高校野球といえば、数々の記憶に残る名勝負が繰り広げられ、人によって「これが最高の試合だった」いう思い出の試合が多々あることと思います。わたしに「あえて1試合をあげてください……」と問われれば、1969(昭和44)年の第51回全国高校野球選手権大会決勝戦、北奥羽代表の青森県立三沢高校vs.愛媛県立松山商業高校をあげるでしょう。

三沢高校は、エース太田幸司のワンマンチーム。太田が2年の時に夏の大会初出場。翌年の春の選抜も出場したが、ともに2回戦で敗退。満を持しての太田最終学年の夏は、緒戦こそ大分商業を相手に延長で逆転勝ちだったが、2回戦は名門・明星に2-1で辛勝。ここで波に乗り、準決勝では岡山の玉島商業を破り、一気に決勝戦にまで駒を進めました。

一方の松山商業は、当時でも後援会から年間1000万円の寄付金があったという名門校(ちなみに三沢の年間予算は15万円)。右腕・井上明と左腕の中村と拮抗した力の投手2人を持つ攻守にバランスのとれたチームでした。決勝まで堂々たる野球で進出し、4度目の優勝(校名変更で「松山東」の1回を含む)に王手をかけていました。

8月18日に行われた決勝戦、松山商業が先攻、三沢が後攻め。井上、太田の両エースが淡々と投げあい、付け入る隙を見せません。まさに投手戦。頭脳的なピッチングを見せる井上はコントロール抜群、ただでさえ貧打の三沢はチャンスらしいチャンスを作れません。

いっぽう三沢の太田も直球一本やりのピッチングで松山商業の好打線を封じました。その端正なマスクは「コーちゃん人気」を呼び、元祖甲子園ギャルも登場しました。

そして、大きな山場が15回裏にやってきました。三沢の先頭バッターが菊池善弘が三遊間を破って出塁。続く高田邦彦がピッチャー左に送りバント。小フライになった打球を松山工業のサード谷岡潔がハンブル。堅い守りの松山工業の上手の手から水がこぼれました。無死1、2塁。二人のランナーを三沢の谷川義彦が送りバントで送り一死2、3塁の大チャンス。

ここで松山商業は満塁策を取ります。滝上哲を敬遠して、一塁を埋めました。さすがの松山商業のエース井上にも疲労の色が見えました。押し出しでもスクイズでも外野フライでもタッチアップでサヨナラ。内野ゴロでも正面を外れれば1点は確実です。ここで井上が土壇場の力を見せで踏んばります。

井上は、満塁でしたがスクイズを警戒しました。ラストバッターの立花五雄に対しボール3つ続けて出し、絶体絶命。この場面でテレビの前の野球大好き白髭少年(当時中学2年生)は、「スクイズのサインを出してストライクならばスクイズ、ボールならばフォアボールで押し出しサヨナラ勝ち」と頭のなかで予想したのですが、立花は真ん中高めのストレートを見逃します。この1球が勝負の明暗を分けました。

1-3からの5球目、真ん中低めのボール。立花は「ボール」と判断して見送り、1塁に向かって歩きかけたのですが郷司主審のコールは「ストライク!」。2-3のフルカウントに
追い込まれます。

そして最大の見せ場がやってきます。井上が投げた6球目を立花は強振、ボールはピッチャーの井上のグラブをワンバウンドで襲い、ショート樋野和寿の前に。バッターランナーの立花は一塁ベースを駆け抜け、サヨナラ勝ちを確信した時、ホームベースを見るとサードランナーの菊池がホームでフォースアウトに。

抜群の運動神経の井上がボールをグラブに当て、それが前進したショート樋野の真正面に飛び、打球をライナーと勘違いした菊池のスタートが一瞬遅れ、それを見た樋野がバックホーム。キャッチャーがホームベースを踏んだ一連のプレー。松山商業は大ピンチを切り抜けました。

16回裏にも三沢は一死満塁のチャンスを迎えますが、やはり鉄壁の松山商業の守りは崩れません。またも松山商業はピンチを凌ぎます。そして三沢に二度とチャンスは巡ってきませんでした。

松山商業・井上が232球、三沢・太田が262球を投げ、スコアーボードに36個の「0」が並んで、引き分け翌日再試合(高校球児の健康管理のために設けられた当時の大会規定)になりました。

8月19日の決勝再試合、松山商業は疲れた井上を休ませ、左腕・中村が先発します。対する三沢は太田幸司がマウンドに立つしかありませんでした。太田には、もはや前日の球威はなく1回表に2点、6回表に2点を献上、結局4-0で松山商業が深紅の大優勝旗を手にしました。

太田は27イニング、2日間で3試合分を1人で投げきって「悲劇のヒーロー」となりました。わたしの友人の多くは、「松山商業は卑怯だ。井上も連投すべきだった」と声高に主張したのですが、わたしはそうは思いませんでした。
「ルールの範囲内。ピッチャーが二人いるなら二日目は中村が投げて当然」と思ったのですが、あの当時に雰囲気としては、判官びいきで三沢ファンが多かったような気がします。

あの松山商業vs.三沢の熱戦から38年。たくさんの名勝負が繰り広げられましたが、あれ以上の名勝負には出会えていないように思います。



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sports_classic Melody 2006-09-06T18:05:37+09:00
第十一回 忘れられぬ江夏豊の球宴での快投 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000037.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

4年に一度のサッカーワールドカップが閉幕し、スポーツ界も放心状態になっていますが、プロ野球も前半戦の終盤に差し掛かり、ペナントレースも佳境に入ってきました。

前半戦と後半戦の挟間に開催される夢の球宴・オールスター戦の時期になりました。オールスターといえば、「お祭り男」と呼ばれる選手の活躍が話題を起こします。昔は長嶋茂雄、現在は新庄剛志あたりになるでしょうか。花のある試合に良い結果を残す「記憶に残る選手」です。

でもピッチャーでいえば、やはり江夏豊の活躍は出色でした。一番の思い出は、1971(昭和46)年7月17日、“今は亡き”西宮球場でおこなわれた一戦でした。当時、阪神タイガースのエースであった江夏は、先発ピッチャーとしてマウンドに登り、並みいるパシフィックリーグの強打者を9連続三振でなで切りにする、空前絶後の新記録を達成したのです。

ご存じのとおり、オールスター戦では、規定により1人のピッチャーは3イニングしか投げることができません。つまりアウトにして9つです。それを、すべて三振で仕留めたのですから、究極の快投でした。

じつはこのシーズン、江夏豊は阪神タイガースのエースとしての成績としては、あまりにも悪すぎたのです。26試合に投げ6勝9敗、防御率も3.12と投手成績15位という有り様。それだけに、このオールスターには期するものがあったのでしょう。

1回の表、先頭打者の有藤を空振りの三振に打ちとると、その余勢をかって基、長池ともに空振りの三振に打ち取りました。江夏はこの時の印象を、「このシーズン、成績が悪かったにもかかわらず、ファンの方が投票してくださって1位に選んでくださいました。恐らく、三振をとることを期待してくださったのでしょう。その期待にただ応えただけです。9人のうち用心したのは長池さんだけでした。32試合連続安打を打っておられるので、ただ1球だけフォークボールを投げました」と語っています。

2回表、打席に立った江夏はランナー2人を置きスリーランホームランを打ち、セントラルリーグが4―0とリード。ますます気をよくします。

2回裏、江藤、土井を早めに追い込み空振りの三振。東田を見逃しの三振にうちとり、これで6打者連続三振。この時点で金田正一が3度、稲尾と江夏自身が前年に作った5者連続三振のオールスター記録を破りました。

「このシーズン、中日戦でいじめられた江藤さんは警戒しましたが、三振の新記録のことは知らなかったですね。だから変なプレッシャーもかからなかった」と試合後に江夏は語っています。

そしていよいよ3回、阪本、岡村と三振に打ち取った江夏。9番目の打者はピンチヒッターの加藤。1ストライク1ボールからの3球目、加藤の打ったボールはキャッチャーのファールフライ。キャッチャー田淵に江夏は「捕るな!」と怒鳴りました。田淵は捕れるボールを見送り2ストライク1ボール。4球目は空振りストライク。ついに大記録は達成されました。

「2回まで全員を打ち取っていたので、なんとか9人連続三振をやってやろうと思いました。ただ残念なのは張本、大杉、野村といった大打者がクリーンアップにいなかったことだった」。江夏らしい強気の発言でした。

これで江夏は前年からの5連続を加えるとオールスター14連続三振ということになります。大記録の後に、江夏は大記録達成の理由を次のように語っています。「田淵のリードが素晴らしかった。直球70%、カーブが29%、そしてフォークが1球。調子自体はそれほど良くなかったけど、オールスターに1位で出られたので気分は良かったですよ」

オールスター男の異名を取った長嶋茂雄は、「今日は江夏デーだったね。ホームランは打つは、9連続三振は達成するは。こっちは、まったく商売あがったりですよ」と、お株をとられた格好。王貞治と2人、試合後半はベンチの片隅でヤジ将軍と化していました。

江夏は2年後、8月30日のペナントレース、阪神vs.中日の20回戦でもっと凄い記録を作っています。延長11回をノーヒットノーラン。味方タイガースの打線も振るわず得点できず、延長戦に入ったのですが、延長11回裏に江夏自らがホームランを放ち、ついに1-0でサヨナラ勝ち。投げては無安打無得点、打ってはサヨナラホームランとまさに孤軍奮闘。球史に残る獅子奮迅の活躍でした。

このように輝かしい記録を残した江夏豊でしたが、南海、広島、日本ハム、西武と渡り歩き、結局は引退後に麻薬不法所持で逮捕されるという数奇な運命をたどる悲劇のヒーローでした。

団塊の世代にとっては、江夏豊といえば縦縞の阪神タイガースのユニフォームが一番似合っていたと思う方が多いでしょう。カープ時代の「伝説の21球」は、たしかにドラマ性があり、山際淳二氏の著書で有名になりましたが、やはり「オールスターの9連続三振」「延長11回のノーヒットノーラン」が印象に残っています。

ことしのオールスターでは、どんな「ドリーム」が生まれるのでしょうか。第二の江夏の登場が待ち遠しいものです。



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sports_classic Melody 2006-09-06T18:03:38+09:00
第十回 ドーハの悲劇を知っていますか? http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000036.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

ドイツで開かれているサッカーワールドカップ。いろいろなサッカーにまつわるエピソードが話題になっていますが、つい先日のことです。中学校でサッカー をやっている13歳の愚息が、
「お父さん、『ドーハの悲劇』って何のこと?」と質問してきました。
「君は『ドーハの悲劇』も知らないのか」と、わたしは愕然としてしまいました。

考えてみれば、今や平成生まれの人が高校生になっている時代です。わたしや団塊の世代のみなさんには、つい最近のことと思っていた「ドーハの悲劇」もすでに「クラシック」の分類に入っているのかもしれません。

「ドーハの悲劇」。誰が命名したのかもわからない言葉ですが(たぶんスポーツ新聞のタイトルを決める整理部の人の命名でしょう)、1993年10月28日にカタールのドーハ(今年の12月にアジア競技大会の開催が予定されています)で行われた1994アメリカ・ワールドカップのアジア最終予選での出来事を、こう呼ぶのです。1992年生まれの愚息が知らないのも当然ですね。

前回書きましたが、1986年メキシコワールドカップ予選で「韓国に勝てばワールドカップ!」というところまで行った日本代表ですが、4年後のイタリア大会の予選では、再び1次予選敗退。「日本は永遠にワールドカップには縁がない」とも思えたのですが、日本代表初の外国人監督ハンス・マリウス・オフトを招き1992年には初のアジアカップ制覇。1993年にJリーグが創設され異様な盛り上がりの中で迎えた1994アメリカ・ワールドカップ予選でした。

「サッカー」がメジャースポーツになって初めてのワールドカップ予選。期待は膨れ上がる一方だったのです。果たせるかな日本代表は、タイ、バングラデシュ、スリランカ、アラブ首長国連邦を相手に戦った1次予選を7勝1分けで突破。カタールのドーハで集中開催された最終予選に進出したのです。

最終予選に進出してきたのはサウジアラビア、イラン、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)、韓国、イラク、日本。この6か国が1回戦総当たりのラウンドロビンで戦い上位2チームがアメリカ本大会に駒を進めることになりました。

10月15日に開幕、ほぼ3日おきに5戦を戦う厳しい予選でした。初戦、強敵サウジアラビアにスコアレスドローで終わった日本、2戦目のイランに1-2で惜敗し、この時点で最下位。早くも後がない背水の陣に追い込まれます。

ここから日本の快進撃が始まります。土壇場で実力を発揮する強さを日本代表の選手たちはJリーグで学んでいたのでしょう。北朝鮮に3-0で完勝した日本は、大一番ではいつも敗れている韓国にも、カズこと三浦知良の1ゴールで快勝。最終戦を前に6チームのトップに立ちました。最後のイラクとの一戦で勝ちさえすればアメリカへの切符を手にできるところまでこぎ着けました。

対するイラクは、湾岸戦争の仕掛人サダム・フセイン大統領の「アメリカにイラク国旗をはためかせよ」との命令の下、「勝利か、さもなければ死か」という状況でした。イラクイレブンも追い込まれていたのです。日本のスターティングラインアップは、GK松永。DF堀池、柱谷、井原、勝矢。MFラモス、吉田光、森保、長谷川。FW中山、三浦知。最終戦ということで、サウジアラビアvs.イラン、韓国vs.北朝鮮も他会場で同時刻にキックオフされました。

試合は意外な展開で始まりました。開始5分、中山のセンタリングを長谷川がシュート。クロスバーに当たって跳ね返ったところを三浦知がヘディングシュート、日本が先制します。

ところが、あまりにも早く先制点を取ってしまったため、日本は守りの意識が強く出てしまいました。徐々にイラクが試合の主導権を握り出します。なんとか前半は持ちこたえて1-0、日本リードでハーフタイムを迎えます。

この後のハーフタイムが大変だったようです。興奮した日本選手たちが、おのおの勝手なことを叫びあい、オフト監督の指示などまったく聞き耳をもたないような状態であったといいます。初のワールドカップを目前にして冷静な選手はロッカールームには一人もいなかったと聞いています。

後半にはいってもイラクペースは続きます。9分、イラクが右サイドから左の前線にクロスパス、イラク得意の攻撃です。これをFWラディンが蹴り込み、試合は振り出しに戻ります。

同点引き分けではアメリカ行きの望みが消える日本。ここでようやく反撃に出ます。25分、引き気味だった指令塔のラモスが中央からスルーパス、オフサイドぎりぎりの位置、タイミングから中山が飛び出しゴンゴール。再び1点のリードを奪いました。

残り20分の攻防は、観ていて胸が閉められるような感じでした。実は、この時わたしは香川県高松のホテルのテレビで世紀の1戦を観ていました。同時期に行われていた東四国国体の取材を抜けることができず、ドーハには行けなかったのです。もう、ハラハラ、ドキドキ。日本の初出場を今か今かと待っていました。

後半45分がすぎ、ついにロスタイム。日本は時間稼ぎをして時の経過を待つことができませんでした。無理攻めからカウンターアタックを食らいGK松永がパンチでシュートを逃れコーナーキックに。このコーナーキックをイラクは予想外のショートコーナー、対応が遅れた日本は三浦知が飛び込みましたが僅かに及ばず、きれいなセンタリングがあがりました。途中交代出場のオムラムがヘディングシュート。ボールはGK松永をあざ笑うかのようにループ気味にゴール右スミに吸い込まれていきました。

日本イレブンには反撃の余力は残っていませんでした。テレビの前のわたしも呆然自失。
1分後に鳴らされたタイムアップの笛に、日本選手は全員ピッチに崩れ落ち、しばらく立ち上がることが出来ませんでした。試合は2-2の同点引き分け。最終戦でイランを4-3と破ったサウジアラビアが1位、日本と勝ち点6で並んだ韓国が得失点差で2点上回り2位。この2チームがアメリカ本大会出場を決めた瞬間でもありました。

この、まさに日本の「サドンデス」を「ドーハの悲劇」と言うんだ、我が息子よ。と解説したいところですが、この大会は総当たり戦で行われたわけで、もしサウジアラビアと引き分けではなく勝っていたり、イランに負けではなく引き分けていれば、日本は韓国に勝ち点で上回っていたわけです。また、それが出来なくとも、たくさんのチャンスを逃した北朝鮮戦で2点多く取っていれば、韓国に勝っている日本はアメリカに行けたわけです(同勝ち点、同得失点差、同得点の場合は当該対戦で勝利したチームが上位になる、というレギュレーションでした)。それが出来なかった日本は甘かったですね。

あのイラク戦のロスタイムに奪われた1失点ばかりに目がいきますが、日本のサッカー界は、マスコミ、一般の方も含めて、まだまだ総合的に勝ち抜くという術を身に付けていなかったことになります。

チームの大黒柱ラモスは試合後、インタビューに次のように語りました。
「サッカーの神様は、まだ日本にワールドカップにでるのは早いよ、といってくれたんだと思います」

日本がワールドカップ本大会の桧舞台に立つためには、それから4年の歳月が必要だったのです。



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sports_classic Melody 2006-09-06T18:01:24+09:00
第九回 ワールドカップが近づいた最初の戦い 1985年予選の日韓戦 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000035.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

4年に1度のサッカーの祭典、ドイツワールドカップが開幕しました。3回連続出場の日本は、1次ラウンドでオーストラリア、クロアチア、ブラジルの順に戦っていきます。もし、4チーム中2位入れば前回の2002年大会同様ベスト16になり、決勝ラウンドに進むことになります。わたしは現地に取材に来ていますが、日本でも同時にテレビで見られますから、応援のしがいがありますね。

さて、ワールドカップは1930年に南米のウルグアイで第1回が開催されました。オリンピックの中間年に4年おきに実施されてきました。日本は「オリンピック至上主義」ということで、ワールドカップには縁がありませんでした。

1938年のフランス大会で、はじめて日本はワールドカップのアジア予選にエントリーします。1936年のベルリン・オリンピックで優勝候補のスウェーデンを破り、「ベルリンの奇跡」といわれた余勢をかってのエントリーでした。しかし、すでに戦火は拡大しておりサッカーどころではありません。残念ながら棄権ということで、アジアからエントリーしていたもう1チーム、オランダ領東インド(現インドネシア)が予選なしで本大会に出場しました。ちなみに、オランダ領東インドは、1回戦でハンガリーに0-6で敗れています。

第2次世界大戦のためワールドカップは2回中止されました。日本が戦後、初めてエントリーしたのが1954年のスイス大会アジア予選。残念ながら韓国に1分け1敗。長沼健・現JFA名誉会長が初ゴールをあげましたが、本大会には進めませんでいた。

日本は1964年の東京オリンピックでベスト8、1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダル獲得と世界のトップレベルに近づきましたが、ワールドカップには縁がありませんでした。当時の日本サッカーはアマチュア選手しか存在しませんでしたから、プロフェッショナル選手が参加する「ワールドカップ」は土俵が違うと考えられていたのです。

ようやくワールドカップ出場まで、あと一歩に近づいたのが1986年のメキシコ・ワールドカップでした。前年の1985年にアジア予選が開催され、この1戦(ホーム&アウェーで実施されたので2試合)に勝てば世界の檜舞台に立てる、というところまでいったのです。ここで日本の前に立ちはだかったのが、宿敵・韓国でした。

10月26日、快晴の東京・国立競技場で行われた第1戦。メキシコ・オリンピック以来低迷していた日本代表は、森孝慈監督の下、テクニシャンがそろいました。この試合のスターティングラインアップは、GK松井。DF松木、加藤久、石神、都並。MF西村、宮内、木村和。FW水沼、戸塚、原。現在、指導者やテレビ解説者として活躍している面々です。

「今回は勝てるかもしれない」。国立競技場は期待に胸膨らませた6万2000のファンで埋まりました。もちろん韓国も在日の方を中心に多くの応援の人々がかけつけていました。まだまだ日韓関係は2002年のワールドカップ時のようにソフトな関係になっていませんでした。その記者席に若き日の白髭も座っていました。

試合は、予想に反して日本有利に展開しました。韓国はアウェーということもありディフェンシブな戦いぶり。しかし、これは韓国の金正男監督が周到に考えた作戦だったのです。テクニックはあるものの経験の浅い日本イレブンは、ボールポゼッションが高くなることをいいことに、守備を疎かにして攻撃一辺倒になってしまいました。

前半30分、DF石神のクリアーミス(当時の国立競技場はグラウンド整備が悪くクリアーしようとしたボールがイレギュラーバウンドしたのです)をオーバーラップしていたDF鄭竜煥がすかさずシュート、先制しました。

この1失点で日本代表は1点のビハインドをとりかえすべく、ますます攻勢に出ます。ところが、これは韓国の思う壷でした。前半41分、システマティックで素早いカウンターアタック。右サイドから攻撃をかけ途中交代出場の李泰*(日カンムリに下に天)が正面からシュート、2点目をあげました。日本のDFラインが押し上げたすきを見事につかれたのです。

結果的には、これが決勝点になりました。日本代表にとっては、悔やんでも悔やみきれない場面でした。すでに韓国のサッカーはプロ化されており、日本選手より一枚も二枚も上を行っていたのです。

しかし、その3分後にゴール正面約23mのフリーキックを木村和がズバッと決めて勝負の興味を後半に持ち越しました。「伝説のフリーキック」として今でも語りぐさになっているゴールです。

後半に入っても日本の攻勢は続きました。とくに後半18分、コーナーキックからチャンスをつかみニアサイドの加藤久がバックヘッド、シュートはクロスバーに跳ね返りゴールを割りませんでした。これが同点に追いつく唯一のチャンスであったような記憶があります。

終盤、日本は木村和をジョージ与那城に交代します。その後、ラモス瑠偉、三都主アレサンドロ等と続いていくブラジル系帰化選手の一人ですが、時間があまりにも少なかったため薬石効ありませんでした。

試合は韓国2-1リードのまま終了。当時の大会規定で、韓国ソウルで開催される第2戦では、日本が韓国に2点差以上点差をつけて勝たなくてはメキシコ本大会の出場は不可能になりました。

果たせるかな、8日後の11月3日、ソウル・オリンピック競技場で行われた第2戦、日本は0-1で敗れ雄図を断たれました。韓国は1954年以来32年ぶり2回目のワールドカップ本大会出場を決め、日本より一歩早く世界への階段をあがっていったのです。

この敗戦は、日本サッカーの歴史にとって大きなエポックになりました。
「日本も早くプロ化しないと韓国追いつけない」
絶望的な状況下にあった日本サッカー界がプロ化に進めるきっかけになったのです。

現在の日本代表のベースは、6回前の1986年メキシコ・ワールドカップの予選にあったといっても過言ではありません。当時のメンバーの多くが、指導者として、コメンテーターとして、現在の日本サッカー界の原動力になっているのです。



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sports_classic Melody 2006-09-06T17:59:56+09:00
第八回 日本人初のメジャーリーガー マッシー村上 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000034.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

毎日、朝刊を開くと、まっさきに読む記事があります。「MLB大リーグ『日本選手の成績』」です。ひと昔前だったら信じられない話です。5月のある日、【野手】イチロー、城島(マリナーズ)、井口(ホワイトソックス)、田口(カージナルス)、松井稼(メッツ)【投手】斎藤(ドジャース)と、6人の成績が掲載されていました。松井秀喜の左手首骨折は残念でしたが、その様子も衛星中継で同時に日本で放送されました。東海岸のナイトゲームは時差の関係で午前中の早い時間に、西海岸のゲームは午前から正午を挟んで午後にかけ、毎日のように日本でもMLBの放送が見ることができます。まさに夢のような時代になりました。

もともと日本のプロ野球は、読売新聞の創始者・正力松太郎翁が「アメリカの大リーグとワールドカップを争うために」立ち上げたといわれています。しかしながら、先の大戦での中断期間もあり、なかなか日米の実力差は縮まりませんでした。ようやくMLBの重い扉が開いたのが1964年、昭和39年のことでした。それは、まさに偶然の産物といっても過言ではない出来事でした。南海ホークスの名将・鶴岡一人の慧眼がすべてのはじまりでした。法政二高が夏春連覇をした時、エースの柴田勳の陰に隠れていた控え投手、サウスポーの村上雅則に目をつけたのが鶴岡でした。鶴岡はプロ野球入団を渋る村上に対して、「アメリカへ野球留学させてやるから南海に入団しないか」と誘ったのです。

1962年9月のことでした。村上は、「1ドル360円の時代ですよ。海外、それも野球の本場アメリカへ行かしてくれるというのは魅力でした。プロ野球選手になるというより、アメリカへ行けるというのが魅力でした」と、当時の心境を語っています。南海は約束どおり村上をサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレスノに留学させました。メジャーリーグの下が3A、その下が2A、そして1Aはその下のレベル。まさに留学という言葉がぴったりの渡米でした。

ところが、村上は得意のスクリューボール(左腕の落ちるシュート)を駆使して、本場アメリカのバッターをキリキリ舞いにさせました。106イニングを投げ159奪三振。11勝7敗という好成績をあげてしまいました。現在だったら大変な騒ぎになっていたことでしょう。ところが、その当時は、そのニュースも日本に伝わりません。「本当は、アメリカ留学は半年くらいの予定で、シーズン途中で帰国することになっていました。でも日本からはなんの反応もなし。それならアメリカに居続けようということになりました」

1964年9月1日、サンフランシスコ・ジャイアンツはニューヨークでメッツと対戦。その試合直前、村上はジャイアンツの職員から「この契約書に署名しないと試合に出られない。とにかくサインして」といわれて、何も分からぬまま署名してしまいました。契約社会のアメリカのしきたり、これが日本人初のメジャーリーガー誕生の瞬間でした。翌1965年の契約書にもサインして帰国した村上を待っていたのは、二重契約の問題でした。「南海の許可をとらずにアメリカの球団と契約するのはけしからん」といわれた村上は、「問題を大きくしたのは、なにも交渉してくれなかった南海のほうです」と証言しています。怒ったアメリカ側は、「爾後、問題が解決するまで日本との交渉を断つ」とまで態度を硬化させてしまいました。

結局、「もう1年だけアメリカでプレーしたい」という村上の意見が通り、再び1965年に村上は渡米しました。この時は「マッシー村上」としてサンフランシスコ・ジャイアンツのリリーフの大黒柱として活躍、4勝1敗8セーブの好成績を残しています。しかし、村上は南海ホークスとの約束のため1966年のシーズンはアメリカに渡ることはできませんでした。「せっかくアメリカの事情もわかってきて、これからという時でしたが、契約のことは仕方がなかった。わたしが帰らなかったら、本当に日米の球界が没交渉 になることも考えられた。そうなっていたら今の日本人選手の活躍もなかったかもしれないね」。村上はいかにも残念という表情で語っていました。

帰国してから、村上は南海ホークス、阪神タイガース、日本ハムファイターズと渡りあるき、103勝30セーブの記録を残しました。大リーグ仕込みのサウスポーは、日本でも成功をみたのです。その後、日本人選手の大リーグメジャー入りは、1995年にドジャースに入団した野茂英雄まで30年間待たなければなりませんでした。いかにマッシー村上の大リーグ入りが快挙であったか分かります。ただし、いまのようにテレビ放送もなく、マッシー村上のニュースは新聞のべた記事程度の扱いであったと思います。

いまやイチローのレーザービームの返球を、城島がホームベースをブロックしてタッチアウトする時代になりました。そして野球の国別対抗のワールドカップ、ワールドベースボールクラシック(WBC)では、日本が見事に優勝するまでになりました。マッシー村上は、はたして後輩たちの活躍を、どのように感じているのでしょうか? たぶん、正力松太郎翁は草葉の陰で快哉を叫んでいることだろうと思います。



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sports_classic Melody 2006-09-06T17:58:34+09:00
第七回 サッカーの王様 ペレ来日 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000033.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

6月9日から7月9日までドイツでサッカーの祭典ワールドカップが開催されます。また5月17日にはフランス・パリ郊外のサンドニのスタッド・ド・フランスで、ヨーロッパクラブ一を決定するUEFAチャンピオンズ・リーグの決勝戦が行われます。

現在、こうしたサッカーの海外の試合が、リアルタイムで日本のお茶の間で楽しめるようになりました。まったく便利な世の中になったものです。わたしが子供の頃には、サッカー(現在と違って超マイナースポーツでした)の海外試合なんかは、週1回の『ダイヤモンドサッカー』(テレビ東京の前身・東京12チャンネルで1968年から1987年まで20年間994回放送)でしか垣間みられませんでした。

岡野俊一郎さん(国際オリンピック委員会委員。日本サッカー協会名誉会長)の解説、金子勝彦アナウンサーの司会で、初期はイングランドのプロリーグを、後にワールドカップやその他の国のサッカーも紹介してくれました。わたしが育った名古屋地方には東京12チャンネルの番組をカバーするテレビ局がなく、UHFの三重テレビを介して『ダイヤモンドサッカー』を見ていました。そのために特別なアンテナを設置してもらった記憶があります。

『ダイヤモンドサッカー』で最初に放送されたワールドカップが、1970年メキシコ大会でした。その大会、ブラジルが3度目の優勝を飾り、当時の優勝カップであったジュールリメ杯を永久保持(大会規定により最初に3度優勝したチームに与えられることが決まっていた)することになりました。そのブラジルの3度の優勝、すべてに関わったのが「キング」ことペレでした。

ペレは愛称で、本名は「エドソン・アランテスド・ナシメント」といいます。まあ、だれも本名で呼ぶ人はいません。ちなみに、現日本代表監督のジーコも本名は「アルツール・アントゥーネス・コインブラ」といいます。ある時インタビューをお願いして原稿料の振り込み先の預金口座を聞いたところ、名義は本名になっていました。ブラジルでは、長ったらしい本名で名前を呼びあうより愛称が通名になっているようです。

話が横にそれました。ペレは1940年10月21日生まれ。1958年のスウェーデン大会に17歳でデビュー、1962年のチリ大会、1966年イングランド大会、1970年メキシコ大会の4回に出場。イングランド大会を除く3回で優勝、4大会で通算12ゴール(歴代3位)しています。まさにブラジルの黄金期を築いた大いなる功労者でした。ブラジルのサントスFCに所属したペレは、公式試合通算1000ゴールをあげている唯一の選手です。

そんなペレがサントスの一員として来日したのが、1972年5月でした。26日に国立競技場で日本代表と1試合戦っています。ペレは1970年のメキシコ・ワールドカップでブラジル代表を退いたものの、プレーヤーとしては円熟の境地にさしかかっていました。

対する日本代表は、前年にミュンヘン・オリンピックのアジア予選に敗れ、メキシコ銅メダルの遺産を食いつぶしてしまった状態でしたが、銅メダルのメンバーとブラジルからの日系選手が加わり、それなりのチームになっていました。日本チームの顔ぶれは、GK横山謙三、DF山口芳忠、小城得達、川上信夫、古田篤良、MF荒井公三、森公慈、小林ジョージ、FW高田一美、釜本邦茂、藤口光紀。途中、GKの横山が船本幸路に、高田がネルソン吉村に、藤口が永井良和に途中交代しています。

名古屋在住の白髭少年は当時17歳の高校3年生。もちろんテレビ中継で試合を見ました。国立競技場は、当時のサッカーの試合では珍しく満員札止。現在になってもサッカー関係者に話を聞くと、ほとんどの方が国立競技場に足を運んだといいます。それだけペレの集客力は並外れてあったということですね。

試合の焦点は、サントス。日本代表の勝敗よりもペレのプレーぶりに集まっていました。中継したテレビ局も異例の「ペレ専用のカメラ」を設置。ペレの一挙手一投足(サッカーだから手は使えませんが)に注目したものです。

試合の詳しい内容は、ほとんど憶えていません。現在のようにホームビデオが普及しておらず、食い入るようにテレビの画面を見つめていた白髭少年の記憶に残っているのは、一つのシーンだけです。

ぺレのマークをしていたのは「マムシ」の異名をとっていた山口でした。1試合中ずっとペレに密着マークしていました。ところがペレは山口を背中に背負って、パスを胸で受けボールを足元に落としました。地上にバウンドする前にボールを高く背後に浮かし、そのボールは山口の頭上を越します。するとペレは背中の山口をくるりと躱(かわ)して素早く山口の背後に回り、落ちてきたボールをボレーシュート。ものの見事にゴールを決めてしまったのです。

「へぇ~こんなことが出来るんだ」とペレの妙技に観客は酔いました。もちろん、テレビの前の少年も感嘆の声をあげました「これが世界のサッカーか!」と。記録によると3-0でサントスが日本代表に勝っていますが、そんなことはどうでもよいのです。あのペレのシュートが見られただけで、大満足の試合でした。

ペレは翌年までサントスでプレーし現役を引退。しかし1975年に立ち上がったアメリカのプロサッカーNASLのニューヨーク・コスモスで活躍。77年に再度来日しました。その試合はスタジアムで取材したのですが、その時のペレには、すでに72年の凄みはありませんでした。

その後、数々の名選手が来日して日本でプレーしています。ベッケンバウアー、クライフ、マラドーナ、ジーコ、プラティニ、等々。しかし、あのペレ初来日の時のようなインパクトあるプレーには出会えてはいません。

今では衛星放送で瞬時に世界中のサッカーが見られます。そして素晴らしいプレーが何度でもビデオで繰り返し見ることができます。ただ、それがために昔のテレビ放送のように真剣には見ていないのではないでしょうか。

ペレ初来日のころは、それこそサッカーをテレビで見るのも真剣勝負でした。もう、ペレのプレーは一瞬も見逃さないよう見たものです。たぶん、わたしも正座していたと思います。

わたしより少し上の団塊の世代の皆さんも、きっとそうしてテレビ観戦をしていたことだろうとご推察します。ぺレの現役時代を知っていらっしゃる方は、もう齢50歳を越えていらっしゃいます。

ペレはその後、ブラジルでスポーツ大臣を務めたり、2002年ワールドカップで日本招致に一役買ったり、まさにスポーツ親善大使として活躍しています。

個人的には1986年のメキシコ・ワールドカップの際、スポーツメーカーのパーティーでお会いしたことがあります。胸板とかは厚いものの意外と小柄であったことには驚きました。サッカー界最大のスターとして、ドイツ・ワールドカップでもお目にかかれると思い楽しみにしているところです。



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sports_classic Melody 2006-09-06T17:57:05+09:00
第六回 日本武道館で「柔道」が「JUDO」になった日 http://j-senioronline.com/jsomt/sports_classic/000032.html
(文) スポーツジャーナリスト・白髭隆幸 協力:SPORTS 21  

今年も4月29日に東京・九段の日本武道館で柔道の全日本選手権が開催されます。柔道日本一を決める大一番の会場になる「武道の殿堂」日本武道館 は、1964年に東京で開かれた東京オリンピックのために造られました。

東京オリンピックから正式競技になった日本古来の柔術をルーツとする柔道。近代柔道は1882年に嘉納治五郎によってルールが定められたといいます。日本最初の国際オリンピック委員会(IOC)委員に選ばれて、日本のオリンピック・ムーブメントに多大な功績を残している嘉納のことについて語るのは次の機会に譲ることにして、今回は日本武道館で繰り広げられた東京オリンピックの柔道について書こうかと思います。

東京オリンピックの時、小学校4年生だった白髭少年の記憶に残っているのは、まずは女子バレーの金メダル。「東洋の魔女」が大きなソ連女子を破ったのは痛快な記憶です。それと男子体操の華麗な活躍。まさに戦後日本を象徴するような技の開発、そして一つひとつの技の完成度を高める技術。日本人の精巧さを具現する究極の演技でした。

それと「大和魂」を結実させたようなレスリング陣、ウエイトリフティングの三宅義信、ボクシングの桜井孝雄の活躍。これも胸を熱くしました。しかし、何と言っても日本人の期待は柔道でした。柔道の母国・日本としては4種目(現在は男子7種目、女子7種目の計14種目が実施されています)完全制覇が絶対の条件。しかし、そこに大きく立ちはだかろうとしたのがオランダのアントン・ヘーシンクでした。

ヘーシンクはオランダだけの稽古に飽き足らず、来日して数年間、講道館や天理大学で修行し、本家・日本の柔道
を熟知していました。身長1m98、体重 120kgの巨体を利しての柔道は、「柔よく剛を制する」という日本古来の柔道精神にまっこうから挑戦するものでした。

東京オリンピックが開催される3年前、ヘーシンクは1961年の世界選手権(当時は階級制がなく無差別級1種目だけ)で優勝しており、ヨーロッパでは敵 なし。日本の金メダル完全制覇を阻むのはヘーシンクただ一人だけだろうと言われていました。

果たせるかな、ヘーシンクは東京オリンピックで無差別級にエントリー(80kg以上の重量級にもエントリー可能)してきました。ここで日本選手団は頭を悩ませます。日本には猪熊功と神永昭夫と甲乙つけがたい重量級選手が2人いたのです。どちらを無差別級に出場させてヘーシンクと対決させるか? これが大問題でした。結局、天理大学でヘーシンクを指導した経験を持つ松本安市監督は、「重量級には猪熊を、神永は無差別級に出場させる」と決定しました。神永の方がヘーシンクに勝てる可能性が高い、という判断だったのですが、それは、「申し訳ないが、ヘーシンクには猪熊でも神永でも勝てない。神永に捨て石になってもらうしかない」という苦渋の選択でもあったのです。

10月20日、柔道は軽いクラスから開始されました。軽量級(~68kg)は中谷雄英が、中量級(68kg~80kg)は岡野功が、重量級(80kg~)は猪熊功が他国の選手を寄せつけず優勝しました。そして柔道最終日の10月23日に最後の無差別級が実施されました。

東京オリンピックの無差別級には9カ国から9人しか参加していません。現在では決勝戦まで無敗でいかないと金メダル、銀メダルは取れないシステムになっていますが、東京オリンピックの時は、まず3人で1回総当たりの予選リーグを行い、そこで1位の選手は準決勝へストレートイン。2位の選手は敗者復活リーグを行い1位の選手だけば準決勝に進むシステムでした。そして、なんとヘーシンクと神永が同じ予選リーグに入り、戦っているのです。

予選リーグは6分間で行われました。神永とヘーシンクの試合は6分間フルで戦ったものの際立った差がなく、旗判定僅差でヘーシンクが勝ちました。ヘーシンクはこのまま準決勝に回り休養を十分に取ることができました。

一方の神永は敗者復活リーグで2試合余計に試合をしなければなりませんでした。もし、組み分け抽選でヘーシンクと違う組に入っていれば、当然準決勝にストレートインできていたはずでした。じつは神永は足に故障をかかえており、体調万全ではなかったといいます。それを隠しての出場でした。2試合も多く戦うのは、たいへんなハンディであったと思います。

準決勝、ヘーシンクはオーストリアのテオドール・ボロノフスキスを僅か12秒で支えつり込み足で一本勝ち。一方の神永は4分10秒にドイツのクラウス・グラーンを体落としで一本勝ち。予想通り決勝戦で対決することになりました。

さて、いよいよ決勝戦が始まります。日本武道館は真の世界一決定戦を見守る1万5000人の大観衆で埋まりました。日系アメリカ人、ケニス・カナメ・クニブキ主審の「ハジメ」の声が響きわたります。

なかなか二人とも組みにいきません。2分すぎヘーシンクが「サア、コイ」と声をあげ、両手をあげて神永の出方を待ちます。現在のルールでしたら両者に「指導」「注意」「警告」がでていたかもしれません。神永は冷静で、ヘーシンクの誘いには応じませんでした。

5分すぎ、神永一瞬の隙をヘーシンクが逃さず支えつりこみ足という技をかけます。神永は、たまらず横に倒れます。その瞬間、ヘーシンクは押さえ込みに入ります。神永は必死で逃げました。7分、今度は神永が左体落としでヘーシンクの体を傾けます。必死に耐えるヘーシンク、場内からは深いため息がもれました。

その後、8分半ばすぎ、運命の時が来ました。神永が技をかけにヘーシンクのふところに入ると、ヘーシンクは待っていたとばかりに寝技にさそい、左けさがために神永を押さえつけたのです。岩のようなヘーシンクの押さえ込みに179cm、102kgの神永も逃げることはできませんでした。必死に跳ねあげようとしましたが動きません。9分22秒、公式計時を受け持ったセイコーの時計のブザーが鳴り、クニブキ主審が「ソコマデ」と宣しました。

その時です。本家のニッポンを破ったことに感動したオランダの役員が、畳みにあがってヘーシンクに抱きつこうとしたのです。その時、ヘーシンクは畳みに上がろうとした同僚を制しました。「まだ、『終わり』の挨拶が終わっていない。祝福はそのあとにしてくれ」と言わんとばかりの形相でした。

じつは、3年前の世界選手権でヘーシンクが優勝した時、勝負が決まった直後に役員が畳上に乱入、問題になっていたのです。その後、日本で修行したヘーシンクは、「礼にはじまり礼に終わる」という武道精神を学びました。そして東京オリンピックの際には、世界選手権の失敗は繰り返さなかったのです。まさに 「柔道」が「JUDO」になった瞬間でした。

その後、ヘーシンクは指導者の道を歩みIOC委員になっています。わたしは1988年の国際オリンピック・アカデミーの講師でギリシャにやってきていたヘーシンクに会ったことがありますが、そのときも懐かしそうに日本代表のわたしに接してくれました。そして神永との対決の事を詳しく語ってくれました。

国際派として世界柔道連盟やIOCでの活躍が期待された神永は、1993年病に倒れ故人になりました。しかし、あのヘーシンクとの死闘は、柔道が続く限り語りつがれることでしょう。



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sports_classic Melody 2006-09-06T17:55:34+09:00