ニオイの原因は細菌の繁殖にあった。
年をとるごとに臭くなる?加齢臭。| 臭いと言われないためには、身体を「過酸化状態」にしない事が大切。 ニオイの原因は毛穴に詰まった過酸化脂質。この過酸化脂質を日常の洗浄で除去できればニオイも収まってくれます。でも過酸化脂質は粘度が高く、通常のソープではなかなか落ちてくれないのが現実です。 乳化剤入り石鹸「フォーミュラBソープ」の秘密 石鹸は脂肪酸とアルカリをケン化させてつくる乳化剤ですが、その乳化力はあまりありません。でも乳化力が強い合成洗剤では肌をいためてしまいます。その両方を解決したのが、乳化剤配合ソープ。フォーミュラBソープはヘルシンキ大学で研究、開発されたヘルシンキ・フォーミュラ独自のノウハウで肌に安全な乳化剤を配合させたソープです。 |
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英国のユニローヤル社(UNI
ROYAL)から発売されたダークオリーブのハンターブーツ(Hunter Boots)は総ゴム製のアウトドア仕様のブーツとして名声を得ていました。ハンティングや釣り用のブーツは特に信頼されていたようです。このユニローヤル社はもともとゴムを活用するタイヤ・メーカーでしたが、時代の推移とともに企業間の思惑で統合や合併を繰り返し企業自体が無くなってしまいました。しかし、当時を知る職人たちが会社を存続させハンター(HUNTER)社と社名を変更し、現在でも綿々とその伝統を守っています。
同様なゴムでも医療用に開発されたラテックス・ラバー(Latex Rubber)で製品化された製品もありましたが、素材自体が薄く、動き回ることによりよく擦り切れ、水漏れしやすく製品はすぐに消えてしまいました。私のウエーダーもすぐに擦り切れ何度も使用しないうちに、処分する羽目に陥った苦い思い出があります。次に出たのはダイビングのときに着用するウエットスーツの素材、クロロプレン素材です。この素材はクロロプレンの重合に依って得られた合成発泡ゴムで1931年に米国デュポン社が開発し製造を始められた素材で、その商品名がネオプレン(Neoprene)と呼ばれていたことから、一般的にネオプレン・ウエーダーと呼ばれました。
釣り場で求められるウエイダーの役割は水中でも保温性が保たれること、動きやすいこと、濡れないことがその三大要素となります。その保温性や動きやすいという面でクロロプレンが優れた素材となることから、一時この素材ももてはやされましたが、重量が他の素材に比べ重くコンパクトに畳むことが不可能というコンパクト差(性能)に欠けることから新素材のゴアテックス(GORE-TEX)に取って代わられつつあります。しかし、寒い時期の釣りに欠かすことは出来ません。
ゴアテックスはさまざまな素材に活用されているので、ご存知の方も多いと思いますが、防水性や透湿透過性(汗などの粒子の細かい水蒸気は外に逃がし、水滴などの大きい粒子は透過させない性質)に優れた素材で雨具(レインジャケット)や帽子(ハット・キャップ)、靴(シューズ)等に多く利用されている素材です。第一世代の初期モデルは水漏れなどの不具合が生じ残念ながら製品としての信頼性は低かったのですが、最近の製品は生地の弱い部分を二層(2レイヤー)、三層(3レイヤー)に補強し、最強のものは五層(5レイヤー)に補強され耐久性に優れ丈夫になっています。現在、主流となっている素材です。釣りになくてはならない存在ですが、このウエストハイ、チェストハイがあることにより、河川内に立ち込み過ぎるという弊害も出ています。釣り人の多さにストレスを感じ、魚の出が悪くなるという問題です。注意しましょう。
長靴タイプはクラッシックでもあり最近は人気が回復しているような気配です。川岸や管理釣り場だけで釣るにはぴったりの存在でもあります。小渓流等ではヒップブーツ・タイプやウエストハイ・タイプを利用したほうが便利ですが、大きな川や海外遠征を狙うならばチェストハイ・タイプの利用を勧めます。靴付きのブーツフット・スタイルとウエーディングウエーディング・シューズを履く組み合わせスタイルの相違については、歩行距離が短く、動き回らない場合においてはブーツフット・スタイルを、歩行距離が長く、歩きやすく動けるのはウエーディング・シューズとストッキング・フットの組み合わせスタイルを選択するといいでしょう。
次回はレインジャケット(Rain Jacket 雨具)を紹介しましょう。
栃木県奥日光の湯川は、湯の湖を水源とし中禅寺湖へと注ぐ河川で、戦場ヶ原の湿原をゆったりと蛇行しながら流れ、川岸の木道は学生などのハイキングや観光客、また若者のデートの散策路としても有名な場所で、標高1400メートルに位置する湯滝からはじまり竜頭の滝までのおよそ12.4キロメートルと規模の短い河川です。しかし、特に戦場ヶ原の湿原を流れるあたりからは、湿原からの伏流水により水量も増し、竜頭の滝では湯滝から出る25倍もの水量に変化するといわれています。“湯川の釣りはスコットランド出身のトーマス・B・グラバー(Thomas Blake Glover)が1902年5月2日アメリカのコロラド州から発眼卵を輸入し、ブルックトラウトを放流したことから実現化します。奥日光ではこのブルックトラウトを「パーレット鱒」と呼んでいますが、それはグラバーとともに移植放流事業に尽力を尽くした英国大使館職員ハロルド・パーレット(Harold Parllet)に由来しています。”(内水面パンフレットからの抜粋)この後、何度かの放流を繰り返したことで完全に定着しました。冬季には産卵する姿を見るためのツアーもあるようです。元来、水生生物の乏しかった中禅寺湖ですが、湖畔より上流域を外国の大使館や公使館の別荘として活用していたようです。その際、故郷を懐かしく想う外人が鱒類を放流してFF(フライフィッシング)が行われるようになったことから、日光が日本におけるFF発祥の聖地として紹介されているのです。 ちなみにトーマス・グラバーとは長崎にある洋館グラバー別邸の持ち主で、プッチーニの代表的三部作、オペラ「蝶々夫人」のモデルになった人物でもあるようです。日本人妻ツルとの次男、倉場富三郎(Thomas
Albert Glover)は通称「グラバー図譜」(Fishes of Southern and Western Japan 日本西部及び南部魚類図譜)と呼ばれる魚類図譜を編纂しました。これも父親からの釣り、いや魚を愛することが遺伝しているのでしょうかね。 湯川は湯の湖とともに独立行政法人中央水産研究所(内水面研究部)の利用する研究水面として農林水産庁が行政財産(試験研究水面)を管理するという珍しい形態で行われています。 さらに維持管理は全国内水面漁業協同組合連合会(全内漁連)日光支所が委託を受け、釣り場の管理を行っています。一般河川は国が所有し漁業権を持った漁協が管理する形態をとっているのですが。まあ、研究フィールドとして最適なのでしょう。この湯川は上流部と下流部で、その趣はまったく異なります。湯滝から小田代橋までの区間は岩盤質で岩もありフリーストーンの様相を呈していますが、泉水池(いずみやどいけ)を中心とする禁漁区から下流域は青木橋からは湿原をくねくねと流れるチョークストリームの様相を呈しています。 最近はキャッチ・アンド・リリース河川が増えてはいますが、この湯川のように生態持ち出しを禁止する河川は始めての試みです。また、ラムサール条約登録とともに河川流域では全域禁煙にしているとのこと。このことはこの原稿を書くまで知りませんでした。この区域において私もタバコを吸わないようにします。先日は喫煙してしまいました。ごめんなさい。これは言い訳ですが、きちんと灰皿を持ち、灰も捨てていません。 濁りが入るのは釣り人が立ち込むせいだと云う事もはじめて知りました。 〈遊漁券販売所〉 1.湯の湖釣り事務所 6:30~17:00 0288-62-2524 2.赤沼茶屋 6:00~17:00 0288-55-0150 3.湯滝レストハウス 7:00~17:00 0288-62-8611 4.大島商店 6:00~17:00 0288-55-0022 〈解禁日&料金〉 5月1日 3000円 5月2日~9月30日 2000円 〈参考外部リンク〉 全国内水面漁業協同組合連合会 全国内水面漁業協同組合連合会日光支所 中央水産研究所 〈参考文献〉 日光鱒釣紳士物語(著者:福田和美氏 発行:山と渓谷社) 【問い合わせ】 塩原漁業協同組合 ℡0287-32-2264 小林釣具店 ℡0287-32-3037 http://www.siobara.or.jp/gyogyo/welcome.stm 那珂川北部漁業組合 ℡0287-54-0002 http://park6.wakwak.com/~nakagawa-hokubu/ |

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というわけで、私の今勤めている私立大学(3年制の技術専門学校)は、格好のテストケースと言えるでしょう。最初の年、二年生の日本語会話を教えました。一クラス40人ほど、多いですね。それを8クラスでしたが、私は日本人ですし、ある程度の学問があれば簡単だと思っていたのです。しかし、最初に戸惑ったのは、何よりも学生の日本語力が分からないことでした。学生は日本語を習い始めて一年経っているのですが、優秀な学生とダメな学生に完全に分かれていて、どこに標準を定めていいのか分からない、当然、中途半端になります。教えて一ヶ月ほど経ったある日、学部長に呼ばれて「父兄から校長に投書が来て、日本人の先生は教え方が下手だ、という抗議がきました」と言われ、妻と二人(妻も会話を教えていました)、しばらく悩みました。その後、私たちはいろいろ工夫をし、信用を得ましたが。
その時感じたのは、<父兄が口出しするのか!>という驚きでした。中国人の先生に聞いてみると「大金を出しているのだから当然」という考え方でした。<お金万能主義>の今の中国人の現状を目の当たりにしている私は、納得するしかありません。学生は学生で我儘な一人っ子ばかりなので、「面白くないものや、すぐに役立たないと思ったものには鼻も引っ掛けない」という態度を取るのです。例えば、「このページを暗記してきなさい」といっても、誰もやってこない! 宿題なんか「あなた、しないの? じゃあ、私も」というわけです。
学生たちの平気な顔を見て、私は怒る気力をなくしました。それ以後、黙って授業中に抜け出す者、遅刻しても謝らない者、よく眠る者、大声でお喋りする者、メールをずっと打っている者が、いること、いること……。叱り付けても無駄。まさに<カエルの面に小便>でした。<赤信号、みんなで渡れば怖くない>のでしょう。いかりや長介ではないが「こりやダメだ」。全員が無気力で全く勉強しないクラスもありました。「彼らは親が金持ちなので、見栄のため大学に入れられた」という。日本語が全く出来ない日本語学部生とは、一体なんですか? 君たちは大学生ではないのか! 彼らは「どうせ、お金で卒業証書を手に入れる」といわれています。多くの学生は覚めた目で、「私立大学は企業です。お金儲けです。教育現場ではありません」といいます。もちろん、頭のいい子、頑張り屋さん、可愛い子、面白い子などもいて、それなりに楽しかったので、5年間続けられたのですが……。
私はこの国に住み始めてから<多勢に無勢>ということを実感を持って知るようになりました。または、<悪化は良貨を駆逐する>ということも。時に、授業中のだらしない学生の姿を見ていると、私は<千万人と言えども、我、行かん>と言った孟子の気骨ある言葉を寂しく思い出すのです……。学校側は「半年過ぎてすぐまた戻ってきてください」といってくれました。嬉しいことは嬉しいですが、戻る気はありません。
あとがき
「ご好評の「地べたから見た日中の交差点」は、筆者帰国のため、今回を持ちまして 終了させていただきます。ご愛読誠にありがとうございました。次回の新企画をどうぞお楽しみに!!」
しかし、期待の日本選手は男子ダブルス一組が準々決勝に進出したのに留まり、福原愛も石川佳純も3回戦までに姿を消し、結局は卓球王国・中国の上位独占ということになりました。ただし、「古の栄華は」という一説に嘘はありません。かつて日本は、1950年代から70年代にかけ世界の卓球界のトップに君臨していた時代があったのです。
1952年、インドのボンベイで史上初めて世界選手権がアジアで開催され、男子シングルスで佐藤博治が、男子ダブルスで藤井則和・林忠明が、そして女子団体(当時は団体戦、個人戦が同時開催)と女子ダブルスで楢原静・西村登美江が優勝。7種目中4種目を制覇し「卓球ニッポン」の礎を築きあげました。翌1953年のルーマニアのブカレストで開かれた世界選手権には、外務省の許可がおりず不参加になりましたが、1954年大会のロンドン大会では男子団体と男子シングルスで荻村伊知朗、そして女子団体で優勝。卓球王国の地位を確固たるものとします。以後、日本選手は1979年の平壌(北朝鮮)大会まで、金メダルを絶やすことなく取り続けます。その中でも、とくに活躍したのが荻村伊知朗でした。
団塊の世代とっては卓球は身近なスポーツ。卓球台とラケット、ボールさえあれば誰でもできる気軽なスポーツ。どちらかといえば「ピンポン」と呼んだほうが、ふさわしいかもしれません。その時代のスパースターが「ミスター卓球」荻村伊知朗でした。荻村は世界選手権最多の12のタイトルホルダー。ヨーロッパ選手のシェークハンド、カット戦法全盛時に、革命的異変を起こしたのが日本のペンホルダーグリップによるスマッシュ攻撃でした。1952年ボンベイ大会で初出場を果たした日本は、スポンジラバーという反発力の強い新兵器を使って、ヨーロッパのカットを打ち抜き、男子シングルスで佐藤選手が優勝。
その後を継いだのが荻村で、厚さ7mmという当時では驚異のスポンジラバーを駆使して卓球の本場ロンドンで世界チャンピオンになり、世界を席巻しました。荻村は、1955年ユトレヒト(オランダ)大会で男子団体に優勝。1956年東京大会では団体、シングルス、ダブルス(富田芳雄とのペア)、1957年ストックホルム(スウェーデン)大会で団体と混合ダブルス(江口富士枝とのペア)、1959年ドルトムント(西ドイツ)大会で団体、ダブルス(村上輝夫とのペア)、混合ダブルス(江口富士枝とのペア)。1961年の北京(中国)大会で混合ダブルス(松崎キミ代とのペア)で優勝しています。
当時の日本の強さは、コースをつくロングサーブ、フットワークを使ったフォアロング、そして相手ボールが高く浮いたところを叩き込むスマッシュ、という3つの要素から成り立っていました。スポンジラバーは、反発力が強いため、ショート、ツッツキなどの小技防御に難しい技術が必要であり、スポンジと1枚ラバーを張り合わせたソフトラバーの使用で、より安定した戦法が確立されました。荻村のライバルとして同時代に2度世界チャンピオンになっている田中利明は裏ソフトラバーで王座につきました。
日本式ペンホルダーの出現は、卓球技術の大きな変革でした。選手は、体力、精神力を含めた強靭な心身を要求され、若さが大きな原動力となっていきました。荻野の後継者として木村興治、長谷川信彦、伊藤繁雄、河野満、小野誠治らが出現。卓球ニッポンは確実に継承されていきました。その後、「打倒ニッポン」を目標に台頭してきたのが中国でした。そして圧倒的な選手層と育成システムを確立した中国は、男女ともに日本にかわって世界を席巻していきます。
荻村伊知朗は現役引退後、卓球の普及、発展に力を注ぎ、ついには国際卓球連盟会長にまで登り詰めました。会長時代の実績は枚挙に暇がありませんが、中でも南北朝鮮の統一チーム結成に尽力し、不可能といわれていた冷戦時代に実現したのは見事でした。荻村は、世界選手権など世界中の要人が集まる機会に、貴賓席にはじっとしておらず、観客席の中にVIPがいるのを見つけると、自分からどんどんその席に赴き、ネゴシエイトしていました。日本人には珍しいタイプの国際派の一面も持っていました。
国際オリンピック委員会にも独自のネットワークを持っており、当時のIOC会長のファン・アントニオ・サマランチ氏も、荻村にたいして一目おいていたようです。1988年のソウル大会から卓球はオリンピックの正式競技になりますが、これも荻村に負うところが大きかったといわれています。また1998年の冬季オリンピックを長野に誘致したときも、荻村の力が大きかったともいわれいわれています。外国のスポーツ関係者からは「ミスターテーブルテニス」と称されたのも当然でした。
そんな荻村が、人生最後に力を入れていたのが、2008年夏季オリンピックの大阪招致でした。「スポーツパラダイス」を提唱し、1994年5月には大阪市議会の演壇に立ち、「政治やイデオロギーでオリンピックを招致する時代は終わりました。スポーツをするのにふさわしい環境を大阪が準備し、世界に提示することを考えた方がいいでしょう」と演説、「荻村メモ」とでも呼ぶべき文書を招致委員会のメンバーに託しました。「大阪」を「東京」に代えれば、そのまま現在でも活かせそうな話です。
すでに病魔に襲われていた荻村は、その3か月後、62歳の生涯を終えています。あまりにも若すぎる死、日本スポーツ界にとっては大きな損失でした。多方面で活躍した荻村伊知朗ですが、やはり卓球ニッポンの再生が一番大きな望みであったと思います。今回の世界選手権では惨敗に終わりましたが、来年の広州の世界選手権(団体)、北京オリンピック、そして再来年の横浜の世界選手
権(個人)で、卓球ニッポンが復活されることを祈りたいものです。
| [証言] 「男同士笑い話をお互いに競い合うんですね。もうメキシコからずっと夜はそういう場がいろいろありまして・・・・それもちょっとエッチな話をお互いやり合うわけです」(森啓次郎「ごぞんじ 開高健」Ⅱより) 「ジョークのやり取りが間断なしに続くもんだから、ああ、これはとんでもない通訳を引き受けてしまったなと後悔しましたよ」(鯉渕信一(「ごぞんじ 開高健」より) |
あるパーティで久しぶりに会った素敵なおじ様とおしゃべりしていたら、「最近こってるの」といって小話を1つ耳元でささやいた。クスンと笑ったら「僕ね、もう覚えちゃったからタネ本プレゼントしたげる」と送ってくださったのが『食卓は笑う』。開高健氏の本だった。この本にはジョークの中で開高氏が出色と思ったものが50あまりも詰まっている。私は知らなかったけれど、「イギリス人もイタリア人もロシア人も、むっつりとしていると思われているドイツ人ですら」、食事の席ではみんな小話をするのがエチケットなんだそう。
『食卓は笑う』から、開高氏推奨のジョークをいくつか紹介しよう。簡潔でわさびのきいたのをまず3つ。 モスコーで。1人の男が書店へ入ってきて、『男は女の支配者』という本はどこにおいてあるかしらとたずねたら、店員がそっけなく、空想小説ならとなりの売り場ですと答えた。とか。
「独裁者と王様のちがいは?」「ハッキリしてます」「何でしょう?」 「王様なら誰でもその父親のことをよく知っていますが、独裁者の父のことは誰も知りません」
西では童話は“むかし、むかし”で始まる。東では童話は“やがていつかは”で始まる。 この本の中で好きなジョークはどれ?と聞かれて、開高氏がこの3つと答えたのが「北京の話」「パリで」「協力はすれども」である。私はとくに北京の話がすごく好き。開高氏も「普遍的な人間性というものをみごとにえぐっている」とほめている。最後にこのジョーク3つを紹介したいけれど、「協力はすれども」はちょっと私には書くにははばかられる言葉が入ってるので控えます。興味のある方は『食卓は笑う』を開いて読んでみてくださいね。
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4月14日、斉藤が初登場したのが開幕戦の対東大戦。1年生の開幕戦登板は77年ぶりとのことですから、ものすごく歴史的なことであることが分かります。ただし、たまたまテレビでその試合を見た印象を言わせていただければ、「なんだ、斉藤人気でもこれくらいの観客しか入らないのか?」というのが偽らざる心境でした。
かつての東京六大学野球は、毎試合神宮球場が満員になる人気がありました。プロ野球ができる以前、そしてできた後も全国的な人気を誇っていたのです。たまたま、わたしが大学に入学するため上京した年も、甲子園で活躍した球児が大量に入学したため今以上の人気を博していました。
法政には袴田英利(静岡自動車工)、植松精一(静岡)、島本啓次郎(箕島)、佃正樹(広島商)、金光興二(広島商)、楠原基(広島商)、徳永利美(柳川商)。早稲田には山倉和博(東邦)、道方(箕面自由学園)、白鳥(静岡)らが入学しています。
しかし、何と言っても注目を浴びたのが作新学院から法政に入学した江川卓でした。作新学院時代から数々の記録を打ちたて「怪物くん」の異名をとった江川でしたが、作新学院では江川のワンマンチームであったため江川一人に注目が集まり過ぎ、チームメイトからは孤立し、江川自身もマスコミに対して不信感をいだき軋轢を生んだといいます。
ともかく、江川卓が高校3年生になった年は、よくも悪くも高校野球の話題は、江川一色になりました。春の選抜では自己の連続無失点記録を139イニングまで伸ばし、最多奪三振記録も更新(33イニングで60個)。その勢いは夏にも続き、栃木大会では44イニング無失点、奪三振75、決勝を含む3試合がノーヒットノーラン。高校通算では完全試合2試合、ノーヒットノーランを12回も記録しています。
ところが、作新学院は江川のワンマンチームだっただけに、簡単には試合に勝てず、優勝からほど遠いチームでした。甲子園最後の試合となった銚子商業戦も雨の中、延長戦にもつれ込み12回裏に一死満塁から押し出しのフォアボール。サヨナラ負けを喫してしまいます。その直前、マウンドで円陣を作った作新学院のチームメイトが、「江川のお陰でオレたちはここまで来れた。だから江川自身が悔いの残らぬよう、江川が投げたい球を思いっきり投げろ」と言ったと伝えられています。江川卓も後年、「最後の一球、あの時はじめてチームが一つになったような気がする」と語っています。
江川卓は最初は法政でなく慶応進学を目指しました。しかし、入学試験に失敗。浪人の道を選ばず、法政進学に進路を変更します。が、受験勉強の影響などで体重が増え、90kgを越してしまっていたようです。鳴りもの入りで六大学に飛び込んだものの、斉藤佑樹とは異なり即戦力は無理、1年の春は出場はないだろう、といわれていました。
江川と同学年だった私は、春のシーズンからせっせと神宮球場に通いました。そして5月25日、対東大1回戦に江川は六大学公式戦に初登板を果たします。法政が6-0とリードした8回から2イニング、打者7人に対して三振3、四球1の失点0。無難な神宮デビューでした。初球は打者・高橋に対して高めのストレート。1塁側スタンドへのファールになりましたが、初めてみる生(なま)江川の投球はとてつもなく速い球と感じました。東大の選手としては21年ぶり5回目の首位打者となる遠藤昭夫を3球三振に打ち取って江川の初登板は幕を閉じました。ちなみに、この日は江川の19回目の誕生日でした。
江川の登板は1試合だけに終わったこの春のシーズンは早稲田が優勝したのですが、それ以後、3年間8シーズン、優勝から遠ざかります。わたしの5年生(?)の秋まで早稲田は優勝できず、反対に江川・法政の快進撃が始まります。1年生の秋、東大に初黒星を喫したものの6勝をあげ、同級生の中林千年との1年生コンビで10勝をあげ、法政は完全優勝を果たします。
2年生の春は、島岡御大が率いる明治が打倒・法政を果たします。江川自身も8勝をあげるのですが、明治との初戦では大学初となる2ケタ安打を喫し、延長10回で2-3で惜敗。決勝の第3戦はピッチャーの丸山清光主将にホームランを打たれての敗戦。1年生の秋に続きベスト9に選ばれますが、満足できないシーズンに終わります。
2年生の秋も明治の勢いが続きます。開幕戦から東大に二連敗を喫した明治ですが、その後、巻き返して天王山の法政戦では丸山主将が力投、特に2回戦では延長14回を1人で投げきり1-0の勝利。2勝をあげて優勝を飾りました。江川は、右肩に不調を訴え、大事な法明戦に登板できず、ベスト9の座も丸山に譲ってしまいました。このころの六大学の主導権は完全に法明戦に移っていました。
“お祭り”で満員になる早慶戦と異なり、法明戦は平日でも満員の盛況でした。普通は閉鎖している第2内野席も、押し寄せるお客さんを入れるために開放。第1内野席から第2内野席につづく橋は、試合終了まで人が絶えることがありませんでした。
3年の春からいよいよ法政・江川の本格的な快進撃が始まります。法政は早稲田と慶応に第4戦までもつれ込む苦戦でしたが、高橋三千丈、鹿取義隆の2人で開幕から8戦全勝できた明治に雪辱、3季ぶりの優勝。江川は12試合に登板、80イニング3分の1を投げ6勝1敗、防御率0.56の成績でベスト9の座にも返り咲きました。
3年生秋のシーズンも江川の活躍は続きます。天王山となった早稲田戦では3試合連続完投の離れ業をみせ、10試合に投げ8勝2敗防御率0.74の好成績。打撃部門でも3割4分2厘でリーグ2位、2本塁打を含む10打点(リーグトップ)。まさにスーパープレーヤーの活躍を見せました。
そして迎えた4年生のシーズン。春は8試合に登板、5試合をシャットアウト、残り3試合も完投。防御率0.50、8勝無敗でベスト9を守り3連覇を果たします。そしてラストの秋シーズン。法政は圧倒的な力で勝ち点5の完全優勝。二度目のリーグ4連覇を果たします。江川自身も六大学の投手記録を次々と塗り替えます。通算勝利記録こそ先輩・山中正竹のリーグ新記録48勝に1個及びませんでしたが、通算完封記録17、通算奪三振443はリーグ新記録。ベスト9も8シーズンで6回。その他、最多勝6回、最多完封5回、防御率1位3回、最多奪三振7回など5部門のトップに立つこと合計22回。これは六大学史上最多。空前絶後の成績です。
東京六大学野球連盟は、江川卓の最後のシーズン、入場券の大幅値上げに踏み切ります(たしか学生券150円を300円に、内野席券300円を500円に)。六大学連盟役員の方々も、江川たち黄金時代の選手たちが卒業したあとの人気凋落を、ある程度予想していたのかもしれません。実際にそうなってしまいます。六大学野球は、徐々に人気をさげ、ほんとうのコアのファンだけが神宮球場に足を運ぶようになってしましました。
江川卓のことは、わたしと大学の入学年が同じこともあって、ずっと気になっていました。「空白の1日」を利用しての電撃ジャイアンツ入団。そして阪神に入団してからの巨人トレード。プロ野球では悪いイメージがついて回りましたが、なぜか気になる存在でした。そしてジャイアンツ退団にまつわる話のときも、ちょっとショックでした。それはミスタープロ野球・長島茂雄の退団の時に団塊の世代の皆さんが感じたのと同じような心境だと思います。同じ時代に学生時代を過ごした象徴的存在が現役を引退。それは、ちょっと寂しいことでした。
江川卓は、あえて指導者の道に入らず、解説者に徹しています。それも何故か分かるような気がします。でも、もし法政の監督に、とオファーがあったら、再びユニホームを着て神宮球場のベンチに入ってほしいな、とも思います。わたしにとっては、ジャイアンツのユニホームよりも「HOSEI」のユニホームの方が江川卓にとって、ふさわしいものだ、と思っているのです。
はたして斉藤佑樹は、江川卓を越えることができるのでしょうか。とりあえず、1年生の春シーズンにだけ限れば斉藤のほうが勝っています。これから再び神宮球場に満員のお客さんが集まるよう、そんな活躍を見せてほしいと願っています。
「この物語はフィクションであり、登場する人物、団体などの名称はすべて架空のものです」と断るのが、ドラマでは当り前なのに、「このドラマは事実に基づいて構成され、資料はすべて警視庁、警察庁、全国警察から寄せられたものです」という、驚くべきナレーションではじまるのが『ダイヤル110番』だった。
『ダイヤル110番』は、1957年9月にスタートした本格的な“捜査もの”の草分け的番組で、現実の事件をリアルに再現していた。生放送の時代に、ドラマの半分近くをフィルムで撮っている。フィルムによるロケのリアリティーと生放送という構成が、ドキュメンタリータッチのドラマとしての緊迫感をうみ、人気があったのだ。
刑事役には、松村達雄、中谷一郎、鈴木瑞穂、加藤武といった、今でこそ名前が知られているが、当時はまったく無名だった俳優が起用されたことも、ドキュメンタリータッチとマッチしていた。57年といえば、緊急電話が110番に統一されたばかりの頃。その告知に功労があったということで、58年6月には、警察庁長官の感謝状が、スポンサーの三菱重工に贈られたとのこと。警察の全面協力番組だったんですね。
日本で最初の本格的刑事ドラマとなると、警視庁捜査一課の七人の刑事の捜査活動を描いた『七人の刑事』だろうね。赤木主任の堀雄二、沢田部長刑事の芦田伸介、杉山刑事の菅原謙二、南刑事の佐藤英夫、中島刑事の城所英夫、小西刑事の美川陽一郎、久保田刑事の天田敏明の七人だ。61年から1話完結の1時間番組として開始されたのだが、その前は菅原謙二と城所英夫を除く5人のレギュラーで『刑事物語』として、2回完結の30分番組として放送されていた。
七人の刑事の中で、最も存在感があったのが、芦田伸介の沢田部長刑事だった。よれよれのレインコートにハンチング。レインコートの前のボタンをはずして、コートのすそを風になびかせて歩く。ドスのきいたボソボソと押しつぶしたような声に、傷痕を残す面構えは、まさしくこれぞ刑事といった感じだった。よれよれのレインコートがトレードマークの刑事コロンボより、芦田伸介が10年も前にスタイルを確立してるんだよ。『七人の刑事』は、たんに犯人を捕まえるだけのドラマでなく、日本復帰前の沖縄問題とか、在日朝鮮人問題とかいった社会的背景や、犯人に対する刑事の人間性、社会的矛盾から発生する犯罪に対する刑事の葛藤など、シリアスな内容となっていた。桜田門界隈の遠景から、旧警視庁の建物がアップになるタイトルバックに流れるZ・デチネの哀愁を帯びたハミング。ドラマと相まって、今でも耳に残っているよ。
テレビにおける最初の外国製警察ものといえば『ハイウェイ・パトロール』だったが、同じ製作スタッフの同種のものとして『ハーバー・コマンド』があった。海上犯罪を追求する港湾警察の活躍を描いたもので、モーターボートやヘリコプターを縦横に駆使した水空一体の追いかけ劇が売り物だった。しかし、ロバート・バクスター隊長役のウェンデル・コーリイが地味で、『ハイウェイ・パトロール』ほど印象に残っていない。
それとは逆に、『哀愁』などでお馴染みの往年の二枚目スター、ロバート・テイラーが主演していたのが『ミステリー61』だった。大都会ニューヨークを舞台に、市警の選りぬきの刑事チームが活躍する犯罪捜査ドラマだよ。ロバート・テイラーが部長刑事で、ほかに部下の刑事3人がレギュラーで、彼らの生活と事件を組合せたドラマ展開だった。
ロバート・テイラーといえば、美男俳優としてMGMのトレード・マーク的スターとして活躍したが、この当時は年齢相応に渋さを売り物にするようになっていた。しかし、演技はお世辞にもうまいとはいえず、大根ぶりが目立った。主演のテイラーよりも、若いクリス・バラード刑事役のマーク・ゴダードが、苦味とさわやかさを備えており、いい味を出していたよ。
推理小説ファンなら誰でも知っている、エド・マクベインの同名警察小説のシリーズをテレビ化したのが『87分署』だった。原作では架空都市アイソラの警察分署だったが、テレビでは国際港と摩天楼にはさまれたマンハッタン地区を管轄する、ニューヨーク警察87分署となっていた。もともとアイソラのモデルはニューヨークだから、原作を読んだ人が観ても違和感はなかったんじゃないかな。小説は1956年に発表された『警官嫌い』から、90年の『晩課』まで42冊出ている。同シリーズは数多く映画化されており、黒沢明の『天国と地獄』も、同シリーズの『キングの身代金』が原作だった。私が“87分署シリーズ”を知っているのは、テレビや映画を通してであり、恥ずかしながら原作は1冊も読んでいないんだよ。
さて、テレビの『87分署』に戻ると、スティーブ・キャレラ(ロバート・ランシング)、ロジャー・ハヴィランド(グレゴリー・ウォルコット)、バート・クリング(ロン・ハーパー)、マイヤー・マイヤー(ノーマン・フェル)の4人の刑事の捜査活動が、人種の坩堝であるニューヨークの通りや、風物を背景に展開される。
善良な市民を食い物にするギャングや、殺人者を追う刑事たちの活躍に加えて、彼らの私生活が、いかにも人間臭く描かれていた。特にスティーブ・キャレラと、彼の美しい唖の妻テディ(シーナ・ローランズ)とのやりとりは秀逸だった。
期待して観ていたのに、30回で打ち切られたのには腹がたったね。蛇足ながら、スティーブ・キャレラの声を担当していたのは西村晃だったんだよ。
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| ミステリー61 ロバート・テイラー |
87分署 左から2番目がスティーブ・キャレラ |

| 1、 | 医療保険に入っていない人は世界一で、13億人中、8.45億人が未加入です。公費の乱費も世界一で、中国の役人は毎年3000億人民元を勝手に使っている。 |
| 2、 | 死刑の案件は世界一。中国では毎年死刑判決の後すぐ処刑で、一万件。おそらく世界の総数の5倍。 |
| 3、 | 中国の役人比率は世界一。民間人の28倍(一説には18倍) |
| 4、 | 中国の貿易依存は世界一。約80%で、他の発展国や発展途上国よりはるかに高い。 |
| 5、 | 労働時間は世界一。中国は今や世界の中で労働時間の最も長い国家で、日本や韓国よりも長い。残業も多く、毎年の過労死は60万人。 |
| 6、 | 自動車事故と死亡者も世界一。(交通規則を守らないのは普通ですからね=筆者) |
| 7、 | 中国の道路は世界で最も不安全である。2006年の前半6ヶ月に交通事故死者は4万人、怪我人は22万人を超える。(私も何度も事故を目撃しています=筆者) |
| 8、 | わが国の炭鉱採掘100トン以上での死亡率世界一。2004年の死亡率はわが国は3.96.アメリカは0.039.なんとアメリカの100倍。 |
| 9、 | 中国の不動産業は世界一。中国の家賃と年収のの比率は12:1.世界第一。中国の不動産業の利益率は30%、これも世界一。 |
| 10、 | 中国の大学の4年間の学費は、農家が飲まず食わずして稼いだ41年間の所得に匹敵。これは、世界第二位の学費が高い日本の3倍。 |
| 11 | 中国の出稼ぎ農民の賃金はメキシコや隣国のベトナムよりも低く、世界最低。 |
宣弘社の生み出したヒーローが安上がりにできていたのに対して、東映テレビ映画が生み出した『七色仮面』は違っていた。もともと劇場公開を前提に作られたせいか、アクションひとつとってみても迫力があった。それに、七色仮面のコスチュームも金がかかってそうだった。宇宙服のようなコスチュームに七色に輝く仮面をつけている。白黒テレビだけど七色に輝くように見えたんだよ。とにかく安っぽい仮面でなかったことは確かだ。月光仮面やハリマオは風呂敷で代用できたのだが、七色仮面はオモチャ屋か、縁日やお祭りでの露店で売られているセルロイドのお面を買うしかなかった。ゴムひもで顔にくくりつけるやつである。私も親に買ってもらって、七色仮面になったのだが、仮面のままで喋っているとだんだん息苦しくなり、長時間の着用は困難だった。
私が住んでいた広島では、日曜の朝9時から放送していたが、第4部<スリーエース>だけが放映されたような気がする。主人公の名探偵・蘭光太郎に。波島進が出演するだけで私はうれしかった。というのは、当時の私にとって身近な大スターだったからだ。
波島進が主演した映画の『七色仮面』は見ていないが、『少年探偵団』は見ていた。ラジオの人気番組に『少年探偵団』があり、それを東映が“少年探偵団シリーズ”として映画化し、波島進の明智小五郎のファンになっていたのだ。波島進イコール名探偵という図式が私の頭の中に出来あがり、少年たちと活躍する身近な存在として形成されていたからである。それにしても『七色仮面』は拳銃の射ち合いの多いテレビ映画だった。高笑いとともに七色仮面がぶッ放す二挺拳銃の弾丸は無尽蔵だった。
波島進の七色仮面は第4部で終了し、当時東映のニューフェースだった千葉真一が蘭光太郎になる『新・七色仮面』が始まるのだが、全く記憶にない。見ていたら、かすかでも憶えているだろうから、広島では放映されなかったのではないだろうか。同じ千葉真一主演の『アラーの使者』は、日曜の朝9時の時間帯で見ているので不思議な気がする。
『アラーの使者』は、アラーの使者が砂漠の中を白馬で行くタイトルだけは憶えているが、内容については殆ど記憶にない。千葉真一のバクテンするアクションがかすかに残っているくらい。日本人なのにアラーの使者というのが、子ども心に違和感があり、感情移入できなかった。原作は『月光仮面』『七色仮面』の川内康範。川内康範が創出した悪人は、殆どが奇怪な仮面をかぶっているのだが、『アラーの使者』は、悪人のイメージさえ浮かんでこないのだ。川内康範原作の仮面ヒーローは、よく考えると正体を隠す必然性がなにもないのだ。仮面のヒーローの正体は、世間でも認めている名探偵なのだから、素顔のままでも事件を解決できる能力を持っているのだ。敵を油断させるためだったら、正体はヘッポコ探偵でなければならない。今から考えると理屈にあわない主人公であった。
日曜朝8時30分には『ナショナルキッド』があった。タイトルで誰でも予想できるように、提供スポンサーは松下電器である。『ナショナルキッド』と同様に、スポンサーの名をつけたものに『ソニー号空飛ぶ冒険』というのもあった。提供していたのは、もちろんソニー。ヘリコプター・サービス会社のパイロット二人組が、怪我人の救助や医薬品の運搬、はては犯罪者の追跡までするアメリカTV映画で、彼らの操縦するヘリコプターがソニー号なのだ。日本語に吹き替える時に勝手にソニー号と命名しただけである。
タイトルにはスポンサー名こそ出ないが、大村崑が主演した『とんま天狗』も本名は倉田典膳ならぬ尾呂内南公であった。スポンサーは大塚製薬で、そこの主要商品がオロナイン軟膏とくれば、言わずもがなである。これで思い出したが、前述の『アラーの使者』も提供がカバヤ食品で、カバヤン王国の末裔であるココナツ殿下を助けて、アラーの使者が闘うという設定になっていた。カバヤ食品の主力商品がココナツキャラメルだったのだ。
ほかにも少年忍者が活躍するアニメ『風のフジ丸』は、原作が白土三平の『忍者旋風』で、その主人公の少年忍者の名前は小太郎だった。フジサワ薬品の提供だったからフジ丸になったのだろう。学園アニメ『ハリスの旋風』の提供はハリスガム。当時は、今と違って一番組一社提供が主流だったので、このようなことができたのだろう。
さて、『ナショナルキッド』に話を戻すが、ナショナルキッドが持っていた武器にエロルヤ光線銃というのがあり、それが松下電器の売出した変型懐中電灯にそっくりだった。レーザー光線に似た光を発し、空飛ぶ円盤だって撃ち落としてしまう。ほうれん草の缶詰の売上げ拡大を狙って『ポパイ』を製作したアメリカのスポンサーに負けない松下の商魂であった。
『ナショナルキッド』は、第1部<インカ族の来襲>、第2部<海底魔王ネルコン>、第3部<地底魔城>で完結する。ナショナルキッドは、宇宙からの使者で、戦う相手は地球征服を目指す宇宙人や海底人、地底人といった連中で最もSF的であった。とくにネルコン魔王の率いる海底人は、アマゾンの半魚人というかトカゲ人間というか、その造形で画面にひきつけられた。ナショナルキッドのT字型に両腕を水平に伸ばして飛ぶ飛行スタイルは、両腕を前方に伸ばして飛ぶスーパーマンよりカッコよかった。何かで読んだのだが、飛行シーンをピアノ線が見えたりする人形の操演でなく、合成方式という当時でも屈指のSFX技術を使っていたとのこと。製作したのが東映テレビ映画で、1本あたり百万円の製作費をかけていたとのことで、出来ばえが素晴らしいのは当り前かな。
東映テレビ映画のSFアクションが『ナショナルキッド』であれば、『海底人8823(ハヤブサ)』は、大映テレビ室が製作したSFアクション。海底王国エルデよりの使者8823が、及川博士の数式を狙うブラックスター団と戦う物語。原作者は東宝怪獣映画『空の大怪獣ラドン』や『大怪獣バラン』の黒沼健。私が見たのは再放送分で、それも途中からだ。主人公の8823が赤土に足を滑らせ、大事なベルトがはずれて死にかけているところを、イサム少年に助けてもらうという、伝説的ズッコケシーンは残念ながら見ていない。
イサム少年が、お礼にもらった3万サイクルの笛を吹くと、地上の平和を守るため、背ビレが波を切って8823がやってくる。ジョーズじゃないですよ。海中から出現するというのはユニークなのだが、山奥で助けを求められたらどうするのだろう。8823が、ただ突っ立ているだけのタイトルも、陳腐さゆえに強烈な印象が残っている。マンガはカッコよかったのにね。

そこで、全国高校選手権を主催する全国高等学校体育連盟サッカー部は、将来有望な若い選手たちに海外遠征の経験を積ませようと、日本高校サッカー選抜チームを1973年から結成、毎年欠かすことなく海外遠征を挙行してきました。(以前は春休み、現在はイースターの時期に開催される国際大会に参加するため時期は前後しています。)年末年始に開催されている全国高校選手権の優秀選手の中から選抜された選手が、77年まではアジア各地を、78年からはヨーロッパに遠征しています。87年からはドイツ・デュセルドルフ国際ユース大会とスイス・ベリンツォーナ国際ユース大会に交互に出場しています。
70年代から80年代にかけては、代表クラスのチーム以外で、サッカーで海外遠征をすることなど夢のまた夢の時代でした。高校選手権に出場し、優秀選手に選ばれ、そして海外遠征に行く。それはサッカー少年たちにとっては、ものすごいステータスであり、モチベーションを高める一大事業でした。わたしが、この遠征に最初に帯同取材したのが1983年。メンバーには清水東の三羽ガラスといわれた長谷川健太(現エスパルス監督)、大榎克己(現早稲田大学監督)、堀池巧(テレビ解説者)が2年生で参加していました。オランダのザイストで合宿、後に代表監督になるハンス・オフトがオランダサッカー協会の指導者コーチをしており、かれの指導も受けました。
当時の日本サッカーのレベルは低く、初参加となったデュッセルドルフ国際ユース大会では10チーム中6位に終わりましたが、初めて見たヨーロッパでのサッカーは強烈な印象でした。見学に行ったアムステルダム国立博物館のレンブラントの傑作「夜警」を見た時の感動も、昨日の事のように記憶しています。高校生にとっては、一生心に残る体験になったと思います。今でこそJリーグに進む高校3年生が、この遠征を辞退することが多くなってしまいましたが、かっては将来、代表入りする選手の多くが、この遠征に参加しました。ざっとあげてみると澤登正明、藤田俊哉、名波浩、小倉隆史、前園真聖、三浦淳宏、波戸康広、城彰二、川口能活、都築龍太……。ほんとうに多くの選手が高校選抜チームでヨーロッパに遠征しています。
この高校選抜の遠征は、国際ユース大会で2度優勝しています。最初の優勝は11年前の1996年、第56回ベリンツォーナ国際ユース大会です。この大会は国際サッカー連盟(FIFA)公認で、日本チームがFIFA公認大会の全てのカテゴリーの中で、優勝したのは史上初めてのことでした。その遠征の報告書に、参加したある選手が一文を寄せています。「今回の遠征に参加でき、ヨーロッパのサッカーを体験できたことは、僕のサッカー人生において本当に有益であったと思います。ただ、大会の試合に1試合も出場できなかったことは悔しかったです。この経験を今後のサッカー人生に生かしていきたいと思っています」
これを書いたのは、いまをときめくスコットランドで活躍中の中村俊輔です。桐光学園2年生の時、高校選手権で準優勝した中村は、優秀選手に選ばれ高校選抜の一員としてヨーロッパ遠征に参加したものの、本大会には出場できませんでした。時々、スポーツ新聞などで、「中村俊輔擁する高校選抜はベリンツォーナ大会で優勝している」という記事を目にすることがありますが、笑ってしまいます。中村は1試合も出ていないのですから。その時の事情を、当時の監督だった林義規先生(暁星高校教諭)は、
「あの時の中村はテクニックはあったが、ヒョロヒョロしていて、とても試合に出せるような状態ではなかった。ただベンチで試合中でもノートを広げて気が付いたことがあると書き込んでいたね」と語っています。
その年の秋も深まった時に行われたアジアユース大会。中村俊輔はU-19日本代表に選出され大ブレークしています。やはり、高校選抜での体験が、かれの成長に大きく影響していることは間違いないでしょう。前園真聖も中村と同様、高校選抜では大会の試合には、まったく出ていません。試合に出ないことでも、その体験は重要であると言えるんでしょうね。わたしは1983年以来およそ1年おきに13回、高校選抜の遠征に同行し取材しています。残念ながら優勝の場面には立ち会っていません。2006年、日本高校選抜チームは第66回ベリンツォーナ国際ユース大会で10年ぶり2度目の優勝を果たします。残念ながら、その場面にも居あわせることが出来ませんでした。
それを受けた今年の高校選抜チーム。初のデュッセルドルフ国際ユース大会優勝を取材できるのでは、と楽しみに出かけたのですが、残念ながら4戦全敗。1ゴールも上げられずに10チーム中10位(つまり最下位)と沈んでしまいました。ヨーロッパ強豪の4チーム(フォルツナ・デュッセルドルフ、ハンブルガーSV、PSVアイントフォーヘン、ヴェルダー・ブレーメン)の厚い壁に跳ね返されてしまったのです。1991年のJリーグ創立以来16年間、ずっと右肩あがりできた日本サッカー界も、そろそろ考え直す時期が来ているのかもしれません。「負けて学ぶこともある」。この遠征は、あくまでも通過点です。この苦い経験を生かして、将来有望な選手たちには、中村俊輔のように成長してもらいたいと思っています。
映画がピークを迎えたのは1958年だった。年間の映画館入場者数は11億2745万人。全国の映画館数が7千軒。当時の人口対比でみると、日本人のすべてが1年に12回以上映画を見たことになり、人口1万3千人に対して1軒の映画館が存在したことになる。
しかし、翌年の皇太子ご成婚に伴うテレビの普及により、映画人口は減少しはじめ、65年には年間入場者数は3億7千万人とピークの三分の1となり、映画館も休館に追い込まれ、5千軒以下となった。
当初、映画界はテレビの普及には限界がくると考えており、小遣い稼ぎに製作費の安いテレビ映画をテレビ局へ提供していた。特に大量の俳優を抱えていた東映は、増産できる体制にあった。
そんな中で、チャンバラの東映がテレビ向けに製作し、ヒットしたのが59年の『風小僧』だった。原作は“新諸国物語”シリーズの北村寿夫。『笛吹童子』『紅孔雀』の延長線上にある作品だよ。
主人公の風小僧は『紅孔雀』に登場したキャラクター。巨万の財宝のありかを秘めた白鳥の球をめぐって、風小僧と悪人たちと戦う波乱万丈の物語。
少年期の風小僧を目黒祐樹(松方弘樹の弟だよね)が、風小僧の師匠役で山城新伍が出演していた。当時小学生だった目黒祐樹は、中学校へ行くためにワンクール(13回)で降板。代わって青年期の風小僧を山城新伍が主演。
第2シリーズは北村寿夫の原案を離れ、普段は城の若殿だが、事件が起こると風小僧となって悪人を退治するという設定にかわった。風に乗って空を飛ぶというのが、スーパーマンみたいでカッコよかったなあ。
東映のニューフェースだった山城新伍はこれで人気が出て、つぎの『白馬童子』の大ヒットで、知名度は全国的なものとなった。白装束に白覆面、獅子のようなたて髪をなびかせ、愛馬“流れ星”に乗ってやってくる。愛刀“日輪丸”が鞘走ると、必殺電光二刀流が悪人どもをなぎ倒す。白馬童子の正体は、将軍の落しだね葵太郎なんだよ。
貴種流離譚の定石を踏まえた娯楽時代劇だった。砂塚秀雄扮するスリの猫七を連れて、長崎から江戸への旅を行く。だいたい4回完結で、1960年1月の長崎を舞台にした「南蛮寺の決闘」にはじまって、「逆襲嵐ヶ原」、「鉄火面の恐怖」、「厳島の決闘」、「悪魔の秘薬」、「黒風党の逆襲」、「お坊主変化」、「お化け白蝶」「怪盗乱舞」と続き、9月まで放映された。「南蛮寺の決闘」は、劇場でも公開されたんだよ。
主演の山城新伍は、颯爽とした二枚目ぶりをみせ、スクリーンへの登場を期待させたが、映画は衰退期にさしかかっており、東映のスター層の厚さの中で、彼の出る余地はすでになかった。
奥さんの花園ひろみと共演したTV映画『江戸忍法帖』が、二枚目時代劇スターとしての最後の作品だったような気がするなあ。 